サッカー元日本代表でJ1横浜F・マリノス(横浜M)の中村俊輔選手(38)が今季限りで退団し、J1磐田に移籍する意向を固めたことが29日、分かった。近日中にも正式発表される見通しだが、実力、人気両面でチームを引っ張ってきた中村選手の退団はサポーターらに大きな衝撃を与えるだけでなく、今後のクラブ経営にも多大な影響を及ぼすとみられる。
同日の天皇杯全日本選手権準決勝で鹿島に0-2で敗れた後、中村選手は去就について「クラブと代理人が話していて、進んでいると思います」と明言を避けたが、複数の関係者によると退団は決定的という。6季連続で主将を務めた今季は左膝の負傷などで出番が少なく、リーグ戦は19試合に出場して4得点だった。
中村選手は11月3日のリーグ戦終了後、慰留に努めるクラブ側と交渉を重ねてきた一方で、磐田から複数年契約の条件で獲得の申し入れを受けていた。複数のクラブ関係者によると、来季の強化方針などにおいて両者に大きな隔たりがあったという。
横浜市出身の中村選手は中学時代に横浜Mの育成組織であるジュニアユースに所属し、桐光学園高校(川崎市麻生区)を経て1997年に入団。正確な左足のキックと抜群のテクニックですぐに台頭し、2000年のJ1第1ステージ制覇に貢献した。
02年にイタリアのレッジーナに移籍し、05年には英スコットランドの名門セルティックに移ってリーグ3連覇を達成。スペインのエスパニョールでもプレーした後、10年に古巣の横浜Mに復帰していた。
日本代表の背番号10としても長く活躍し、ワールドカップ(W杯)は06年ドイツと10年南アフリカの2大会に出場。国際Aマッチは歴代7位の98試合に出場して24得点している。JリーグではJ1通算338試合で68得点。00年に続いて13年には史上初となる2度目の最優秀選手賞に輝いた。
移籍先とみられる磐田は静岡県磐田市にホームタウンを置き、リーグ年間優勝3度の強豪。14年にJ2に降格したが、今季は3年ぶりにJ1に昇格して戦い、年間13位だった。
希代レフティー流出 “横浜の顔”失うマリノス
サッカーの名門クラブ、J1横浜F・マリノス(横浜M)が誇るレフティーの流出が決定的となった。延べ13年にわたり、チームを支えてきた元日本代表の中村俊輔選手(38)。左足から繰り出すフリーキックの世界的な名手として知られた横浜の顔を失ったクラブはどこに向かうのか。
29日の天皇杯全日本選手権準決勝の鹿島戦。敗退が決まり、サポーターへのあいさつを終えた背番号10はうつむき加減で大阪市のヤンマースタジアム長居のピッチを後にした。
「(1年間)フルに戦えず残念。サポーター、クラブに対して申し訳ない」。淡々と今シーズンを振り返ったが、この黒星がただの負けではないことは本人が一番理解していた。
桐光学園高校3年時に全国高校選手権で準優勝し、大きな期待を受けて入団した1997年から19年。代名詞である利き足の左足からのフリーキックは芸術品とも称され、所属チームだけでなく、日本代表や多くのサポーターに何度も歓喜をもたらしてきた。
「(日本でプレーするときの)クラブはマリノスしか考えていなかった」。2002年から欧州で8季プレーし、10年に古巣に復帰した際の会見で明かした思いは変わったのか。関係者は、今回の決断と、クラブ側が今オフに進めてきた強化策とは無関係ではないとみている。
リーグ2連覇を遂げた2004年以降では最低タイとなる年間10位に沈んだリーグ戦終了後の11月。横浜Mは一部選手との対立が表面化していたエリク・モンバエルツ監督(61)の続投を決定。急速な世代交代や長年勤めたクラブ職員の退団も推し進める動きには動揺が広がった。中村選手自身も「ことしはサッカー以外のことでクラブと話す機会がたくさんあった」と語っていた。
慰留に努め、複数回交渉を重ねてきたクラブ側にとって損失は大きい。国内では横浜M一筋でプレーしてきた中村選手の人気はチーム随一で、営業面での影響は必至とみられる。クラブ関係者は「(俊輔が移籍すれば)営業収入は3分の1くらいは減るのではないか」と漏らす。
世代交代などのクラブの方針には、横浜Mが14年に資本提携を結び、英イングランドの強豪クラブなどを傘下に置くシティー・フットボール・グループ(CFG)の意向が色濃く反映されているという。ある中堅選手は「マリノスがマリノスじゃなくなった」と声を上げるが、さらなる主力の移籍に拍車が掛かる恐れもある。