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フロンターレ、ハタチの物語(1)何げない存在、夢見て 

川崎フロンターレ | 神奈川新聞 | 2016年1月1日(金) 14:50

あなたにとってのフロンターレを一言で表すと、という問いの答えは「家族」。欠かせない存在であることの表れだ
あなたにとってのフロンターレを一言で表すと、という問いの答えは「家族」。欠かせない存在であることの表れだ

 あなたにとってのフロンターレを一言で表すと、という問いの答えは「家族」。欠かせない存在であることの表れだ

 サッカーファンではなかったし、ましてやフロンターレが好きなわけでもなかった。なのに今、チームの20周年記念事業実行委員会の委員長に収まっている。

 2001年。当時所属していた川崎青年会議所が後援する試合を見に行った。雨の日だった。確かロスタイムで失点して負けた、寒い試合だった。終了後、クラブの社長があいさつにきた。その後ろから怒号が聞こえてきた。

 「試合に怒ったサポーターが押しかけてきたんですね。これは何なんだと、興味を持ったのが最初です」

 紀中靖雄さん(51)は高津区の機械部品製造会社「賛友精機」の2代目社長。「プロチームに逃げられ続けてきた川崎にクラブを根付かせ、街のアイデンティティーとして市民をつなげられたらと思った」。すぐに市と掛け合い、フロンターレ連携・魅力作り事業実行委員会を結成した。この街で求められるものは何かと、模索を続けた。

 「川崎と言えば、というアンケートに対し『灰色の街』『汚い』といったネガティブな回答が大半。悔しかった」

 当時のJリーグ川淵三郎チェアマンに講演を頼み、地域にJクラブがあることの意義を語ってもらった。サッカーに触れられる場所をつくろうと、宮前区鷺沼のフットサル場(現フロンタウン)開設にも携わった。

 チームは04年にJ1昇格を果たし、06年には首位争いを演じた。日本代表選手も生まれた。数年前まで3千人程度もざらだった観客は、常に1万人を超えるようになった。

 変化を実感したのは08年、等々力競技場の改修に関する署名活動だった。「駅頭に立つと、声を掛けなくても向こうから署名をしに寄って来てくれた。クラブが身近な存在になってきていると実感した」。署名は22万筆にも達した。

 06年の10周年の時にも実行委員長を務めた。20周年の今季は全長145メートルという巨大フラッグの製作、OBドリームマッチなど数々の企画を打つ。「今回のテーマは感謝。クラブ自体にも、それを支えてくれた地域にもありがとうを伝えたい」

 夢がある。「川崎に住む家族の食卓で『ああ、今週末は試合だね』という会話が日常的に交わされるようになってほしい」。何げない生活の一場面にクラブが顔をのぞかせるような地域密着が理想だ。

 翻って自身は。「自分が食卓でチームのことを話すと、妻に『あなたは家のことはしないでフロンターレばかり』と怒られます。この矛盾はまあ、仕方ないですね」。愉快そうに苦笑いした。

創設20周年を迎えた川崎フロンターレに関わる人たちの「ハタチの物語」を追い、地域とともに歩んできたクラブの歩みを振り返る。

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