
クラブ創設21シーズン目にして悲願の初タイトルを獲得したサッカーJ1の川崎フロンターレ。これまで国内三大大会で8度の準優勝に泣き、「シルバーコレクター」という不名誉なレッテルを貼られてきたクラブがついに殻を破った。優勝の瞬間、ピッチに突っ伏してむせび泣いたのは川崎一筋15年目の中村憲剛選手(37)。チーム最年長が背負ってきたものの大きさを象徴するシーンに胸が熱くなった。
逆転でのリーグ優勝に望みをつなぎ、迎えた最終節・大宮アルディージャ戦。後半ロスタイムに長谷川竜也選手(23)が5点目のゴールを決めると、等々力陸上競技場は割れんばかりの大歓声に包まれた。
次の瞬間には試合終了のホイッスル。控え選手、スタッフが次々とピッチになだれ込み、抱き合って涙を流す。「一人の人間が感情を爆発させる連鎖による、すごいパワーを感じた」(中村選手)。21年分の歓喜がホームスタジアムを包み込んだ。
○○○ 国内最多20冠目を狙った強豪・鹿島アントラーズを得失点差で退けて初優勝を飾った川崎だが、シーズン前の下馬評は決して高くなかった。新たに就任した鬼木達監督(43)の手腕が未知数であることや、リーグ戦と並行してアジア・チャンピオンズリーグを戦う過密日程であること。そして最大の懸念は、昨季までの4シーズンで公式戦101得点を挙げた大久保嘉人選手(35)がチームを離れたことだった。
開幕直後には新たな攻撃の核と期待された家長昭博選手(31)をはじめ、負傷者が続出するアクシデントに見舞われた。一時は登録31選手中11選手が離脱し、紅白戦も満足に行えない状況。リーグ戦は最初の10試合を4勝4分け2敗と勝ちきれない試合が続いた。
それでも夏場以降、チームは力強さを増した。球際の激しさや攻守の切り替えなど鬼木監督がチームに求めた守備意識が浸透し、新戦力の阿部浩之選手(28)やけがで出遅れた家長選手も徐々にチームの攻撃スタイルに適合。「ゴールを決めることでチームを引っ張るのが自分の仕事」という小林悠選手(30)は新たな主将像を確立させ、量産態勢に入った。
終わってみれば、リーグトップの71得点にクラブ史上最少の32失点。攻撃力を落とさず、これまで足かせになっていた守備力を改善させ、クラブ幹部が過去の優勝チームのデータからタイトル獲得の目安に設定した「1試合平均2得点以上、1失点以下」という目標を初めてクリアした。
○○○ ついに無冠の歴史に終止符を打ったクラブの目標はアジア、そして世界へと向く。鬼木監督は優勝を決めた最終戦後の会見で次のように意気込みを語った。
「例えばバルセロナやレアル・マドリードと10回やって1回の勝利を狙うなら、下がってカウンターでもいいかもしれない。でも自分たちがボールを握って攻撃することでその可能性を五分まで持っていけるかもしれない。自分たちが日本サッカーを背負うような気持ちで先頭に立っていきたいと思う」
自信という大きな財産を得た川崎から来季も目が離せなくなりそうだ。
原石発掘、育成…理想を追い
クラブOBが指揮を執り、生え抜きのストライカーがゴールを量産する。J1初優勝を決めた川崎フロンターレの戦いは、まだリーグの新興勢力にすぎなかった頃にクラブが描いていた理想像そのものだった。
「ただ強くなるだけじゃ駄目だ。日本サッカーの強化に貢献するようなクラブにならないと」。幹部の一人がそう語ったのは10年以上前になる。「川崎から日本代表FWを送り出したい」「将来はOBを監督に据えたい」とも続けた。
四半世紀の歴史があるJリーグで、1997年準加盟のフロンターレは「後発組」だ。J1復帰した2005年当時の営業収入約19億円は、18クラブで下から3番目。リーグ発足時から名を連ねる鹿島や浦和などにはブランド力で劣る。育成組織の整備も、有力選手の引き抜きにつながるとの懸念から、地域の学校やクラブチームなどの理解を得るまでに時間を要した。
全国各地にJクラブが増え続けた時代、トップチームの枠内で選手を育てていくには明確なビジョンが必要だった。強力なブラジル人の獲得に熱心だったのも、目先の結果だけでなく日本人の成長を促す狙いからだ。03年から9シーズン在籍し、J1通算116得点を挙げたジュニーニョ氏が好例だった。
クラブの現役最年長の中村選手は若い頃、成長の糧となった選手にこの快足FWの名を挙げていた。「半径5メートルくらいのズレなら何とかするから、もっと俺にパスを出せと」。以来、中村選手はボールを受ける前にジュニーニョ氏の位置を確認するようになったという。
やがて日本代表の中核を担うようになった中村選手は、「代表で得たものをクラブに還元するのも俺の役割」と、世界の強豪を相手に磨いたパスで周りの選手のレベルも引き上げていった。元北朝鮮代表の鄭大世選手(現清水)しかり、現在のエース小林悠選手しかり。いずれも学生時代に脚光を浴びる存在ではなかったが、実績にとらわれない地道なスカウトで原石を発掘し、自前で育てるという息の長い戦略が実を結んだ。
歴代監督の歴史をひもとけば、2000年途中から11人続けて日本人が指揮を執ってきた。鬼木監督が昨季まで風間前監督の下でコーチを務めたように、継続性を大切にしながら外部人材とOBの指導者を交互に起用することで好循環を生み出した。
たたえるべきは、8度の2位という苦難にも理想を失わずに挑み続けた姿勢だろう。「いま思えば、全てに意味があったんだな」という中村選手の言葉にすべては凝縮されていた。