1998年10月29日未明、自宅の電話が鳴った。こんな時間に誰だと思いながら出ると、部長から。当然、いい話のはずはなく「マリノスとフリューゲルスが合併する」と知らされた。恥ずかしながら、全く寝耳に水の話だった。
当初その日は横浜国際総合競技場で、かながわ・ゆめ国体の閉会式を取材する予定だった。ろくに寝られず朝が訪れ、同僚と二手に分かれて両チームの練習場に向かった。
日本が初めてワールドカップ(W杯)に出場して盛り上がった年の秋、Jリーグに厳しい試練が訪れた。
地域密着が支えに
フランスW杯日本代表のエース中田英寿がイタリア移籍でチームを離れたベルマーレ平塚も試練の波にのみ込まれ、親会社フジタの撤退が決まった。地元経済人の1人として市民クラブ化に深く関わったのが現会長の真壁潔だった。
99年1月、Jリーグのクラブがある全国の都市の代表者が集まり、平塚で開かれた第1回Jリーグホームタウンサミットで、主催する平塚商工会議所青年部の真壁と名刺交換した。その後、苦境のクラブ立て直しを成功させる青年経営者との初対面だった。
親会社なしでの再建を果たすため、7市3町をホームタウンに同年12月、湘南ベルマーレとして新たなスタートを切った。「湘南」の地名は地図にはないが、存続活動で先頭に立った地元選出代議士の河野太郎が記者会見で「いずれは僕らのホームタウンが湘南だと言える日を目指します」と話したことを真壁は鮮明に記憶している。
昨年、RIZAP(ライザップ)グループが経営権を取得して注目を集め、ルヴァン杯の優勝でJリーグ初タイトルを獲得。苦難の道のりではあったが、地元で丁寧に地域密着活動を続けたことが鮮やかな復活のキーポイントだった。
Jリーグは設立に当たり、単にプロ化を図るのではなく、企業名を外したチーム名で地域との結び付きを重視する理念で出発した。
初代Jリーグチェアマン川淵三郎とともにプロ化を推進した元日本協会会長で日産スタジアム名誉場長の小倉純二は「欧州のクラブを見た経験から、地域と結び付かないとチームはあり得ないと思っていた。日本リーグの企業は最初、どこも相手にしてくれなかったが、地方協会と自治体が乗ってくれた」と振り返る。この地域密着が、苦しいときの支えになった。
ベルマーレは2017年にホームタウンを9市11町に広げ、合わせた人口は200万を超える。都道府県にあてはめると全国16位の長野県に匹敵する。湘南のつなぎ役を担い、真壁は「太郎さんのあのときの言葉を感じるところがある」と感慨を語る。