物心ついたときからプールは遊び場だった。そしていつからか逃げ場のない所となった。「種目を飛ばなかったりすると家のご飯が出てこないということもざらだった」。リオデジャネイロ五輪をつかんだ今、坂井丞は苦笑とともに幼いころの記憶をたどる。
父・弘靖さん(54)、母・由美子さん(54)はともに日体大の飛び込みコーチを務めていた。サラブレッドが両親と同じ道を歩むのは必然のようにも映るが、本人の思いは別のところにあった。
自我が芽生えたころ、飛び込みは楽しさよりも恐怖心が勝っていた。
水際で戯れる横で、大学生の選手が入水に失敗し、背中から落ちて血を吐く姿を見たのは一度や二度ではない。「自分がやらなくてもそういうのを見てきたからずっと怖かった」。練習も父にばれないように隠れて飛ばないこともあった。やめたいと母に懇願したことも数え切れなかった。
だが、可能性を見いだしていた両親は長男が弱音を吐く度にそれをいなした。由美子さんは明かす。「運動神経は良かったし、動きが違った。やる気がなくてこれだけやるんだから、やる気が出たらすごいだろうなと思っていた」。嫌々ながら大会に出ても好成績を残した。敷かれたレールの上を歩めば大成する。あとは本人の心が育つのを待つばかりだった。
「宙返りの景色が見える」。坂井は自らの空中での姿を客観視できるという。生まれ持ったセンスと弘靖さんの指導で磨かれた空中姿勢の美しさ。「回転のスピードが速い。こればかりは教えようがない」。幾多のアスリートを指導してきた弘靖さんはわが子の才能をそう表現する。