ひねり技の下地は、父の勝晃さん(56)が経営する鶴見ジュニア体操クラブで生まれた。クラブができたのは1999年。リオデジャネイロ五輪体操男子代表、白井健三(19)=日体大=は3歳の頃からトランポリンの上で跳びはね、空中での感覚を研ぎ澄ましていた。
ただ、好きなことをやり続けるだけでは限界もあった。小学校6年でジュニアナショナルチームに選ばれていた白井だが、中学に進学した翌年は選考から漏れた。この低迷期での指導者との出会いも白井にとって大きな意味を持っていた。
父のつてで、かつて和歌山県の体操クラブでジュニア時代の田中佑典(コナミスポーツ)ら田中3きょうだいを育てた水口晴雄コーチ(56)の指導を仰ぐことになった。
水口コーチもひねりのすごみは、一目で見て分かったという。ただ「練習が全く身に入っていなかった」と振り返る。
注目したのは白井が中学1年の冬、クラブの門をたたいた2歳年下の有望株、湯浅賢哉(千葉・市船橋高)だ。床運動を除いた種目で白井のレベルを上回っていた湯浅と競り合わせることにした。
「年下に負けていたら目の色が変わるからね」。水口コーチの狙い通りだった。白井は基礎練習から逃げなくなった。
白井が中学3年、湯浅が中学1年で迎えた2011年夏は2人の一騎打ちになった。
関東中学校大会の個人総合は白井が個人総合を制したが、全国中学校大会は総合力で勝る湯浅に頂点を譲り、僅差の3位に甘んじた。「ミスをすれば負ける」ことを痛みとともに味わい、また練習に熱が入った。
「お互いに高め合えた。好きなものだけを突き詰めていれば今はなかった」。敗北の大切さを説く水口コーチの言葉は現実のものとなった。
全国中学校大会の約2カ月後、全日本種目別選手権の床運動。白井は、内村航平(コナミスポーツ)に次ぐ準優勝という鮮烈なデビューを果たした。
初めての五輪代表となった今。白井は体操が嫌いになった当時を今でも懐かしみ、苦笑いする。
「思い返せば、あの基礎が今にすごく生きているんです。あの嫌な時期があったから、もうああはなりたくないと思える。人生山あり谷あり。まだ19歳ですけどね」
「天才」。白井が自身の能力をそう形容されることを好まないのは、この思いがあるからだ。「いろんな人との出会いが重なって今、こうして代表になれた」