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市制90年 川崎今昔記〈1〉ただ1度だけの日本一・大洋/巨人2軍と一緒?・ロッテ

スポーツ | 神奈川新聞 | 2014年7月1日(火) 12:00

市民たちの歓声の渦に包まれた大洋の優勝パレード=1960年10月6日、川崎市川崎区の市役所前
市民たちの歓声の渦に包まれた大洋の優勝パレード=1960年10月6日、川崎市川崎区の市役所前

後にも先にも1度だけ、川崎はプロ野球の日本一に沸いている。1960年、名将・三原脩監督に導かれ、万年最下位と揶揄された大洋ホエールズの初優勝だ。その歓喜のパレード、祝福の波をかき分けたオープンカーが川崎球場を後にする。目指す先は東京・丸の内の大洋漁業本社だった。

「六郷橋を渡ると、もうファンはいない。車が一気にスピードを上げて、本社のそばで2度目のパレード。なにせ、野球は巨人の時代だったから」。シリーズMVPの近藤昭仁さん(76)が述懐する。地域密着には遠く、親会社を向く球団の姿勢もにじんだ。

球場は同年、改修工事を終え公称3万人収容に。だが、1試合平均の観客数は約8670人。それも、ほぼ満員となる年間13試合の巨人戦に下支えされた。70年代、ラーメン1杯200円のころ、場内8カ所の売店は巨人戦1試合で約1500万円を売り上げた。同球場の嶋田誠総務部長(57)は、「3連戦の売り上げを勘定するのに、1週間かかった」と明かす。

■「実力のパ」苦闘

「ネームバリューで言えば、ワシらは多摩川組と一緒や」。78年から本拠地としたロッテオリオンズの、ある主力選手は嘆いたという。「多摩川組」とは、河川敷のグラウンドを使用した巨人2軍のことだ。

抑えの切り札として80、81年のパ・リーグ前期優勝に貢献した倉持明さん(61)は、「当時は野武士集団と呼ばれたほど強かった」と解説する。エースは「まさかり投法」の村田兆治投手。「ミスター・ロッテ」の有藤道世選手や、のちの三冠王に輝く落合博満選手もいた。

それでも-。週末のあるデーゲーム、倉持さんは三塁側の最上段だけ埋まった「屈辱」を忘れない。グラウンドに背を向け、新聞と赤鉛筆を握る男たち。隣接する川崎競輪場が満員のため、流れてきたファンだった。「この野郎、と思ったけれど、彼らもお金を払っているから仕方ない」。人気のセ、実力のパ、と言われた時代の悲哀だった。

■古くても日本一

「勝ったらヨッシャー、負けたらバカ野郎。それはもう極端。観客が少ないからメガホンなしで聞こえてくる」と倉持さん。「アフター・ファイブ」という言葉がはやった80年代、仕事帰りに野球観戦で憂さを晴らすのは、少数派の川崎市民の楽しみだった。

試合後、すすけた顔を球場の風呂で洗い流した日々を、近藤さんは思い返す。臨海部から運ばれた煙のせいだ。深刻な大気汚染が叫ばれ、大洋側のベンチ裏にだけ酸素ボンベが用意されたのは、ささやかなホームアドバンテージだったのかもしれない。

51年の開場後、計3球団が本拠地とし、大洋とロッテは老朽化などを理由に川崎を去った。それは、当時の100万人都市にプロスポーツが根付かなかった負の歴史とくくられた。球場は2000年に解体。それでも、近藤さんは変わらぬ愛着を口にする。「12球団で一番ぼろいと言われたけれど、俺にとっては思い出の詰まった日本一の球場なんだよ」

川崎市は7月1日、1924年の市制施行から90周年の節目を迎えた。戦後、京浜臨海部の中核として日本の高度成長を支え、現在は国家戦略特区の区域指定など新たな産業創出の場として注目を浴びる元気な街。そんな川崎の産業や文化などの昔を振り返り、今を見つめる。

【神奈川新聞】


川崎球場を本拠地と決めたロッテ球団を歓迎する市民の集いで、詰め掛けたファンに紹介される選手たち=1977年12月24日、川崎市川崎区の市体育館
川崎球場を本拠地と決めたロッテ球団を歓迎する市民の集いで、詰め掛けたファンに紹介される選手たち=1977年12月24日、川崎市川崎区の市体育館

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