10日で21歳になった若いボクサーに挫折がなかったわけではない。井上尚弥にとって最初の苦い記憶は高校2年生だった2010年夏、全国高校総体(インターハイ)で刻まれている。
09年4月。新磯高(現相模原青陵高)に入学した1年生の前に敵はすでにいなかった。
夏のインターハイ、秋の国体、翌年の春の選抜大会と、高校ボクシング界における三大タイトルをいきなり総なめにした。史上初の高校8冠が現実味を増し、一気に周囲の目が向き始めた。
だが、2年夏のインターハイ。優勝候補の一角として沖縄に乗り込んだ17歳は、準々決勝で足元をすくわれた。手数は十分に出し、内容的には悪くなかったが、こつこつと有効打を積み重ねる相手に判定負けした。父の真吾(42)のもとへ歩み寄り、こらえてきた涙が頬を伝った。
「負けたとは思っていない」。プロとして名をはせる今も残っている悔しさを糧に、さらに練習に熱を込めた。
高校3年になった11年7月にはインドネシア大統領杯優勝。その年の秋には全日本選手権でも頂点に立った。高校生年代の枠にとらわれず、羽を広げようとしていた、そのとき、人生の転換点ともいえる敗北を喫することになった。
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2012年4月。ロンドン五輪出場を懸けて最後のチャンスとなるアジア選手権に臨んだ。
10代での五輪出場自体は、他競技では珍しいことではない。だが、ボクシングとなると、後にプロとなる1964年の東京五輪代表、高山将孝ら数例しかなかった。
「五輪はアマチュアの最高峰。今この時期で、どれだけの結果を残せるか」。井上は集大成として高き山に挑んだ。
だが、その挑戦はあと一歩のところで実らなかった。五輪予選を兼ねた世界選手権はベスト16に入り、海外の有力選手と互角に闘える自信はあった。しかし、決勝で地元カザフスタンの選手に11-16で判定負けした。
「あの悔しさは二度と味わいたくないと思った。認められない何かがあったのだろう」。3日間ふさぎ込んだ井上にとって、4年後のリオデジャネイロ五輪はあまりにも遠い舞台だった。その年の7月、大橋ジムへ父とともに移籍、プロに転じた。
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「18歳から19歳にかけていい経験ができたと、今は思っている。積んだ経験は間違いなく大きかった」。インドネシア大統領杯をはじめ、世界選手権、アジア選手権-。井上はアマチュア時代、海外で多くの試合をこなせたことが自身の礎になっていると認めている。
それは、息子の成長を肌で感じてきた父の見解とも一致している。「ナオは海外で闘った経験があるから不安はない」。世界戦前、真吾はこう語っている。
アマチュア時代に築いた栄光と挫折。井上家のリビングには世界王者になった今も、父自筆の書が張られている。「世界選手権に向け全ての練習に意識を」。それは二度とあの悔しさを味わわないという井上の誓いでもあった。 =敬称略
【神奈川新聞】