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名将のこの人と語りたい(5)
【スペシャル対談】大日方邦子氏×渡辺元智氏

スポーツ | 神奈川新聞 | 2017年12月19日(火) 02:00

平昌冬季パラリンピックの活躍を期待して握手を交わす渡辺氏(左)と大日方氏=東京都港区の電通パブリックリレーションズ
平昌冬季パラリンピックの活躍を期待して握手を交わす渡辺氏(左)と大日方氏=東京都港区の電通パブリックリレーションズ

 横浜育ちで元パラリンピック(アルペンスキー)日本代表選手の大日方邦子氏(45)=電通パブリックリレーションズ社員=が日本選手団長を務める平昌(ピョンチャン)冬季パラリンピック(3月9~18日)まで3カ月足らず。冬季大会で日本人最多となる通算10個のメダルをチェアスキーのカテゴリーで獲得した障害者スポーツ界のレジェンドと、5度の甲子園優勝を誇る横浜高野球部前監督の渡辺元智氏(73)が平昌大会への期待やスポーツの魅力を語り合った。

スキーとの出合い


渡辺 私が監督を務めた横浜高校野球部が1998年に甲子園で春夏連覇したとき、長野冬季パラリンピックがありました。

大日方 ようやくスポーツとして認知され、根付いたのが長野パラリンピックだったと思います。2020年東京五輪・パラリンピックの開催が決定したあたりからもだいぶ環境が変わり、パラリンピックの選手も同じスポーツという形で健常者のアスリートたちと話す機会は増えていますね。

 最初私がチェアスキーを始めた30年近く前はまだパラリンピックという存在がほとんど知られておらず、練習できるスキー場を探すのがとても大変でした。まず練習する前にスキー場へ当時のコーチや何人かの選手たちとパラリンピックやチェアスキーの説明をしながらこの場所で合宿させてほしいとお願いに行き、理解を示してもらえたところで練習するというような時代でした。

渡辺 ずっとトライしていくような形でここまで来た。大変なことだったと思います。

大日方 私自身がスキーを始めたのはすごく遅くて17歳でした。初めてスキー場を見て、横浜育ちなので雪なんか降るとアスファルトの路面が滑って歩きにくくなるイメージがあって、あまりいいものではないと思っていたのですが、スキー場に行くと素晴らしいコースに変わるわけです。そこで思いきり体を動かして、雪の中で転がり回り、転倒することすらも楽しかった。

 最初はパラリンピックという存在を知らなくて、ただ友達と一緒にスポーツを楽しみたい、スキーをしたいという一面のみでした。大学に入ってパラリンピックのことを教えてもらい、挑戦してみないかという誘いをいただいたのです。

渡辺 チェアスキーの道具をそろえるのも大変だったのではないですか。

大日方 チェアスキーを見たときにスキーの板の上に椅子がついていたので、これだったら私でもスキーができるのではないかとスキーを始めました。あとさき考えず突っ込むタイプなので(笑)。スキーウエアというのもよく分からなくて、どういう服装をしていけばいいのかも聞きました。もともと体を動かすのは大好きで、けがをしたのは3歳でしたが障害のない時代というのは記憶がないのです。私にとっては義足を付けて歩くことというのが非常にナチュラルで、木登りをしたり、ブランコに乗ったりとか、こぎすぎて止まらなくなったりとか(笑)。いろんなやんちゃなことをして、ジャングルジムのような不安定なところでバランスを取るのも好きでした。のちのちの競技の中で生きましたね。



長野冬季パラリンピックの女子滑降チェアスキーで日本人初の金メダルを獲得した大日方氏=1998年3月
長野冬季パラリンピックの女子滑降チェアスキーで日本人初の金メダルを獲得した大日方氏=1998年3月

恐怖心を克服


渡辺 遊びの中にうまくなる要素がたくさんありますね。リズム、バランス、タイミングというのはものすごくスポーツに大事です。

大日方 そうですね。小さい頃はできるだけ動きを取り入れるとか、遊びの中で得られることってどの競技でも多いです。体験的に言っても、いろんな運動をしていたことで後々生きてきたことってたくさんある。とっさの対応に表れますよね。

渡辺 大日方さんは98年の長野パラリンピックで、冬季大会では日本人初の金メダリストになったのですね。

大日方 一番最初に出場したリレハンメル大会はメダルまで届かず、長野大会で初日に運良く金メダルを取れました。

渡辺 17歳から始めて、メダルを取るというのは大変な努力のたまものです。滑走はスピードの恐怖心があったと思いますが。

大日方 そうですね。小さい頃からやっているとスピードに対する恐怖心がなく、自然に滑れる。アルペンスキーはスピードが速くなったときに自分のバランスを失わないことが大切で、そのためには若い頃から経験したほうがいいと言われています。そこはもう練習量でカバーするしかなかったですね。スピードは最速で100キロぐらい。恐怖心を含めてスピードをコントロール下に置けないときは大きな失敗につながります。スキーヤーというのは怖いと思ったら体が立ち上がってしまい、後ろにバランスがいく。そうするとますますスピードがついてコントロールできなくなるのです。初心者の人には怖いと思ったときほど前に重心をかけるように言います。

渡辺 どうやって恐怖心を克服したのですか。

大日方 スピードが一番出るダウンヒルという競技は、そのコースを試走できます。最初の日は自分がここならいけるというスピードでコースの特徴をできるだけつかみ、徐々に限界スピードを上げていくという非常に緻密なことをやっている。その中で恐怖心をそぎ落としていきます。

両親の支え


渡辺 何ごとも備えが大切ですね。小さいときから周囲の人も一生懸命応援して、ハンディを克服していったのでしょうか。

大日方 私が選手としてやれたのは両親にすごく感謝しています。両親は私に社会で役立つ人間になってほしいと小さいときから繰り返し言っていました。すごく大きな事故に遭い、死んでもおかしくない中で助かった命なので、その意味を探すのがあなたの人生だと思うというふうに言っていました。木登りなんか思わず止めたくなることってあると思うが、止めないのです。セーフティーガードは張ってあるような状況なのですが、「足が悪いのだからこんなことは無理」とか言われたことはありません。例えば、運動会に参加したいのならどうやったら参加できるか一緒に考えようというように、親が時には手を携えて一緒に歩いてくれたし、後押ししてくれました。

渡辺 周りでサポートしてくれる大人も必要だし、一番は本人の努力ですね。そうでないと、どの競技でもトップアスリートに入れない。そういう人を後輩たちが見習って、追いかけていく。大日方さんはそういう立場になっていると思います。

大日方 長野冬季パラリンピックを見て、私が金メダルを取ったときの滑りを見て競技を始めてくれた後輩たちが何人もいて、今ちょうどその人たちが平昌の主力選手になります。非常にうれしいですね。

道具は分身


渡辺氏
渡辺氏

渡辺 やはり何でも勝利至上主義ではないと思いますが、そこにトライしていく姿勢が大切。誰でもいいという訳ではなく、大日方さんの人間性とかを含めて目標にしている。チェアスキーのシートとかフレーム、サスペンションのバランスを考えるのも大変ではないですか。

大日方 道具が自分の体の一部になっているような感じですね。本当に微妙な調整をやっていくうちになじみます。

渡辺 ずっと愛着があって使っていくと自分の分身みたいになる。道具を替えなければならないときは大変でしょう。

大日方 大変ですね。これは本当に自分が道具を替えることは大きな決断です。まるで自分を替えるみたいな感じ。道具と自分の技術と、ある環境の中でどうバランスを取っていくか。ある種のこの競技の醍醐味(だいごみ)だと思います。シーズンの始めにまず今季はこのセッティングで行こうと決める。難しいのはうまくいかず壁に当たったとき、道具を変えればいいのか、技術を変えればいいのか、それとも体調の問題なのか、メンタルの問題なのか、不調の原因を自分で分かっていないと泥沼にはまってしまいます。

渡辺 競技中にちょっとした齟齬(そご)が出たときにどう対応するのですか。転倒する人も多い中で金メダルを取るというのは大変な技術ですね。

大日方 ほんの紙一重で、スイートスポットというのは1カ所しかない競技なのです。一瞬一瞬でちょっとずれたら減速の要因になるし、ちょっとやりすぎて自分の能力を超えると投げ出される。スタートしてしまったら自分の感覚と今まで積み重ねてきた練習の中でいろいろな引き出しがあるのをどれだけ素早く開けられるか。事前に思っていたよりは違ったということがたくさんあるのです。

渡辺 野球でも投球のバランスが少しでもずれたらストライクにならない。こういうバランス感覚を身に付ければもっとうまくなるね。

大日方 私は野球が好きなので、この前の日本シリーズもドキドキしながらずっと見続けていました。本当にぎりぎりの中で捕った瞬間の微妙なバランスはすごいなと思います。


大日方氏
大日方氏

認め合う社会に



渡辺 これから団長として平昌に向かうわけですが、みんなが注目して応援するような大会になるといいですね。

大日方 五輪と同様にパラリンピックも日本の代表として皆さんに応援してほしいと思っています。ぜひ皆さんに「こんなことができるんだ」と誇りに思ってもらえるような活躍を選手たちがしてくれることを期待しています。

渡辺 パラリンピックの選手も五輪選手と同じ条件でプレーできるのが理想ですね。

大日方 例えばスキー場に行くと健常者も障害者も同じ場所を使って滑ります。そういう意味ではすごくユニバーサルなスポーツだと思うし、みんな違っていいんだと一人一人がスポーツを通じて多様性を知り、お互いにそれを認め合うことが結局社会を生きやすくするということが伝わるといいなと思います。

渡辺 大日方さんは2010年までにメダルを10個獲得しています。これだけ長くトップレベルで活躍できた要因は何ですか?

大日方 パラリンピックへの挑戦というのは4年に1度なのです。大会が終わると4年後に焦点を当て、その都度目標設定をし直している感じはありました。何を自分自身の次の目標にするのかということをちゃんと持っておくと、ゼロベースに戻れる場所がある。結果的には足かけ20年近い競技生活になったのですが、その中にしっかり区切りがありましたね。

渡辺 目標なくしてただ漠然とやっているだけでは駄目です。目標を明確に立てて、すぐには無理だとしてもそこまで行くのだという気持ちを周りの人がサポートしてくれる。一生懸命やっていれば、もし達成できなくてもそれ自体に価値がある。

大日方 頑張れば悔いがないですよね。私も最後のバンクーバーのパラリンピックは銅メダルが二つで、3種目目で金をどうしても金メダルが取りたくてちょっと欲を出してしまいまして(笑)、滑ったときに時速100キロぐらいの中で転倒して、そのままヘリコプターで病院に運ばれました。負けてもちゃんと負けた理由があって、何かが足りなかったなというのが分かればある意味すっきりする。じゃあ次はこういうふうにしようということも財産ですよね。


次世代につなぐ


渡辺氏
渡辺氏

渡辺 スポーツは見る者にも勇気を与えてくれます。

大日方 プレーヤーも見てくれる人がいると力がわくし、見ている人もそのスポーツから何かのヒントだったりとか、刺激し合えます。

渡辺 無人のグラウンドでいくらやっても駄目ですね(笑)。やはり観客と一体になる。あんなに一生懸命応援してくれる、何としてでも頑張ろうとかね。

大日方 国もよく「する・見る・支える」スポーツと言っています。スポーツへの関わり方は多様でいいし、するスポーツ、私はスキーをしますが、野球は見るスポーツだし、いまはスキーも支えるスポーツにもなりつつあるというようにいろんな関わり方でスポーツが楽しめます。

渡辺 私の考えでは、野球人が野球だけ学んでも駄目なのです。いろんな人と会って、そこからいろんなものを吸収して、ものごとを多面的に見る。そこでまた成長がある。

大日方 そうですね。いろんなことを知っていることが選手としての能力も高めます。選手としてやってきたことを次世代につないでいくときにも有効だと思います。

渡辺 それから、レベルを高めるためには新しい選手を育てないといけませんね。人材を発掘する機会もあるのですか。

大日方 あります。体験教室とか。センスがある子はスピードに対して怖いよりも楽しいという思いが先に立つ子が伸びます。

渡辺 最初は楽しいと思うことから始めないと。だんだん心も体も成長してきて、目標を大きくさせればいい。野球でもみんなそうです。

大日方 最初の体験が楽しければ、その後大変なことがあっても自分が選んだ道だから頑張ろうと思えます。よくスキーは嫌いだと言う人の経験を聞くと、だいたい天気が悪かったか、むりやり指導者が滑れないのにリフトの上に連れて行ったかですね(笑)。

道を開く



渡辺 これからの夢を聞かせてください。

大日方 一緒に支えていく人を増やしたいですね。現役を終えて7年たつのですが、7年を振り返ると前の先輩の姿を追ってというよりも見えない中で切り開いてきたので、私はその感じでこの先も行くのだろうと思います。一緒に切り開ける仲間だったりとか、後ろから別の形で支えてくれたりする人とか、仲間をもっと増やしたいとすごく思っています。何らかの形で人のお役に立つような生き方をしたいなというのがすごくあります。20年の大会を成功させ、「あの大会でいい方向に社会が変わった」「あの大会があったからスポーツが近くなり、街にも気軽に歩けるようになった」と日本の皆さんに思ってもらうことが大切かなと思っています。

渡辺 障害者がどんどんスポーツに参加してもらいたい。そして健常者と同じなんだという感覚まで持っていけるといいですね。

 わたなべ・もとのり 横浜高-関東学院大。1968年から横浜高野球部監督を務め、甲子園では通算51勝、春夏合わせて5度の優勝を誇る。松坂大輔投手(ソフトバンク)や筒香嘉智外野手(横浜DeNA)ら多くのプロ野球選手を輩出し、2015年に勇退。松田町出身。72歳。

 おびなた・くにこ 平昌パラリンピック選手団長。電通パブリックリレーションズ・シニア・コンサルタント。日本障害者スキー連盟理事。日本パラリンピアンズ協会(PAJ)副会長。横浜市立小山台中-柏陽高-中央大-早稲田大学大学院スポーツ科学学術院修士課程修了。1994年のリレハンメル冬季パラリンピックから連続5大会出場。東京都出身。45歳。


大日方氏
大日方氏
 
 
 

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