節目の「1000日」目前
2020年東京五輪開幕まで、今月28日で1000日を迎える。世界トップレベルの競演に胸躍らすと同時に、スポーツ文化を根付かせる絶好の機会だ。「子どもたちのための大会にしないといけない」。アーチェリーのアテネ五輪銀メダリスト、山本博(54)は、未来への“遺産”に思いをはせ、自身6度目の大舞台へ闘志を駆り立てている。
栄光も挫折も味わってきた。日体大3年時の1984年、ロサンゼルス五輪で銅メダルを獲得したが、それから20年間も辛酸をなめ、2004年アテネ五輪で銀メダリストに返り咲いた。五輪の怖さと尊さを、その大きな背中で語っている。
日本勢はリオデジャネイロ五輪で史上最多の41個のメダルを手にした。「時差があるリオでも過去最高のメダルが取れるだけコンディショニング能力は高まった」と山本は言う。
自国開催となれば、もちろん時差調整の必要もない。「強化費用も過去に類を見ないほどつぎ込まれている。日本の選手が最高のパフォーマンスを出す可能性は高まっていると思う」
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強者が必ずしも勝つとは限らないのが五輪だ。92年のバルセロナでは予選を9位で通過も、決勝トーナメント1回戦で敗退。続くアトランタも19位に沈んだ。
「風が読めなかったり、あまりに調整がうまくいってメダルが非常に強く感じられちゃうがゆえに、純粋に臨めなくなっちゃったり」。キャリアがあっても一瞬で崩れてしまう可能性がある。
4年に1度。競技人生の全てをその一回に注ぎ込むからこその尊さもある。「優勝できたやつは誰が見てもあいつだよってなる。勝利者に対して『フロックだ』って思いが生まれない大会。その一瞬は勝つべく人が勝っている」。アテネで銀メダルをつかんでから13年。あと一歩及ばなかったが悔いは今もない。
「死力の限り自分の技を出し切ったから、あのときこうしておけば、こう打っておけばという回想が出ない。何百回やってもああいう答えしか導き出せなかった」
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今月末で55歳。4大会ぶり6度目の五輪を目指す2020年への道は、言うまでもなく困難だ。それでも昨年、右肩にメスを入れた。誰より自らが復活を信じるからに他ならない。
「まだ点数が出せるという思いがある。手術する前と同じように弓を引けるようになった。一度落ちた筋肉がまたついてきた。こうしたら矢を10点に入れられるという感覚はまだある」
本業の教授職をはじめ、数々の役職をこなす多忙な合間を縫って汗を流す。己と向き合い、五輪の射場に立つ姿を想像する。ただ出るだけでは切ないという。あくまで勝負できることが条件だ。
「そのステージの連中と渡り合えるから楽しい。持っているイメージがあるなら表現できなきゃ意味がない。思っているならやってみろよというのが自分へのエール」
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競技の第一線に立つ一方、都体協の会長として組織委員会関係者と意見を交わす立場にある。声を大にして訴えたい思いがある。
「子どもたちは純粋で素直。ここで五輪があったんだ。あの素晴らしい選手、競技が行われたんだと感じてほしい」
真に子どもたちのためにできるのか。限られた人間の利益を潤すだけではないのか-。一人でも多くの子どもたちに目で見て、触れてほしいと願う。
「大人になったら人を感動させられるような人間になりたい-と志を持ってくれる子が五輪があったおかげで10人でも、100人でも増えたら将来の日本、楽しみだなと思う」
やまもと・ひろし アーチェリーアテネ五輪銀メダリスト。日体大教授。保土ケ谷中時代にアーチェリーを始め、横浜高を経て進んだ日体大3年時の1984年、ロサンゼルス五輪で銅メダル。ソウル五輪8位、バルセロナ五輪17位、アトランタ五輪19位、2004年アテネ五輪で銀メダルを獲得し、「中年の星」と称賛された。14年から東京都体協会長。東京五輪・パラリンピック競技委員会顧問会議顧問。横浜市保土ケ谷区出身。54歳。
2020年東京五輪・パラリンピックを目指す神奈川ゆかりの選手を随時紹介します。