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カントーの漢 稲垣啓太
プロローグ 栄光と挫折とともに

スポーツ | 神奈川新聞 | 2019年9月16日(月) 05:00


 あの歴史的勝利から、4年の歳月が流れた。

 「ラグビーの歴史上最大の衝撃。スポーツの枠を越えて波紋が生じたことは間違いない」-。2015年9月20日。ラグビーワールドカップ(W杯)イングランド大会で世界を驚かせたブライトンの奇跡の翌朝、英国・ガーディアン紙はこう報じた。

 世界中のラグビーファンの心に刻まれた南アフリカ戦。W杯で通算1勝21敗2分けだった弱小国の日本が、2度優勝の強国に奇跡を起こしたのだ。29-32の後半ロスタイム。五郎丸歩(ヤマハ発動機)がPGを決めれば同点という場面で、リーチ・マイケル主将(東芝)らFW陣は勝利にこだわりスクラムを選択。劇的トライが生まれた。

 日本の白星は実に24年ぶり。拳を突き上げ、抱き合う大男たちの中に、関東学院大出身の稲垣啓太(29)=パナソニック=がいた。最年少FWだった青年は、「スプリングボクス」と称される南アとの激闘がW杯初出場。大きな顔を涙でくしゃくしゃにしていた。

 主将を務めた大学4年時に、31年ぶりにカントー2部降格の不名誉を経験してもただ一人、泣かなかった男は今、「自分は泣いたことはない」と奇跡の試合での涙を否定し、「ビート・ザ・ボクス(打倒南ア)を合言葉にやってきたことは間違っていなかった」とあの瞬間を振り返るのだ。

 今では不動の背番号1としてジャパンのリーダーへ成長を遂げた。新潟工高、関東大で培った無尽蔵のスタミナを生かして体を張り続け、代表首脳陣から「強さも、取り組み方もワールドクラス」と称賛され、戦術を的確に遂行する理論派としても欠かせない唯一無二の存在となった。

 1990年生まれの稲垣の人生は、87年にスタートしたラグビーW杯で、日本代表が歩んできた苦難の道に重なっている。そして、名将・春口広(70)がつくり上げ、90年代~2000年代にかけて黄金期を迎えながら、衰退していった関東学院大ラグビー部の栄光と挫折の歴史とも歩みをともにしてきた。

 後に4大会連続でW杯日本代表に選出される松田努(49)=W杯日本大会アンバサダー=が関東大に入学したのが89年春。90年に大学選手権に初出場すると、全国から集まった無名選手たちが「雑草に花が咲く」(春口)ように実力を伸ばし、98年には箕内拓郎(43)=日野コーチ=を軸に選手権初制覇。そして「石を投げればカントーに当たる」(松田)と代表にOBが名を連ね、箕内や北川俊澄(38)=日野、山村亮(38)=ヤマハ発動機=らが羽ばたいて全盛期を迎える。

 しかし、2007年秋の大麻事件を機に歯車は狂い、名門への歩みは突如途切れた。その間、カントー出身の選手たちが挑み続けたW杯で、日本代表は苦しみ続けた。95年大会で喫した145失点の歴史的大敗を機にラグビー人気は低迷し、長い間、弱小国の烙印を押されたままとなっていた。

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