【カナロコスポーツ=佐藤 将人】高校野球で5度の全国制覇を誇り、毎年のようにプロ選手を輩出し続けてきた。もはや説明の必要すらないほどの名門、横浜高校。時代を築いた渡辺元智前監督から平田徹監督にバトンが渡されて、1年あまりが経過した。新監督は就任1年目から夏の神奈川を制して甲子園に行くなど、順風の門出に成功した。「強い横浜」の系譜はまず継がれたが、果たしてその野球の質、気質はどうなのか。ライバル校の指導者、そしてOBに聞いた。さて、横浜高校は変わったのか-。
「新監督の哲学垣間見えた」
挨拶もそこそこに、彼は興奮気味に話し始めた。
「横浜の選手があんなに迷いなく振っていくなんて、マジびっくりしました。選手も楽しみながら勝ちに行っている。平田監督ならではのチームづくりが見えた気がしましたね」
昨夏、7月31日。神奈川大会の決勝が終わった横浜スタジアムの駐車場だった。久しぶりに会った村田浩明(現白山監督)は、少し頬がふっくらしていた。涌井秀章(現千葉ロッテ)の同級生。当然のようにプロに行った右腕とバッテリーを組み、選抜では準優勝、夏の甲子園でベスト8まで進んだ。横浜の主将として、チーム一の「怒られ役」でもあった。「渡辺野球」の強さ、奥深さ、魅力に畏れを抱いているからこそ、新監督の下で躍動する選手たちが新鮮に映った。
「高校時代からお世話になっている平田さんは、こんなチームを作ろうとしていたんだと。こんな野球もやってみたかったなあって、思いました」
「決勝だからこそのスクイズ」
平田新監督が初の甲子園を決めた、慶応との決勝戦。乱暴を承知で言ってしまえば、試合は2本のホームランで決してしまった。
まずは初回。1死一塁で、打席には3番の増田珠。初球だった。真ん中に入ってくるカーブを、右打者は迷いなく強打した。瞬間にそれと分かる打球が、左翼席に消えていった。
先制、2-0。
強い高校の強打者が、決勝で先制のホームランを放つ-。当たり前のように思えるが、実は近年の横浜にとっては非常に珍しいことだ。渡辺体制がキャリア終盤を迎えていたここ10年ほどの夏の神奈川大会決勝の先制点の取り方を見れば、それがわかる。
近い順にさかのぼる。13年(対平塚学園)はバントの構えからヒッティングに切り替える、「バスターエンドラン」が適時二塁打となった。11年(対桐光学園)は五回に、08年(対横浜創学館)と04年(対神奈川工)は初回に、いずれも1死三塁からお手本のようなスクイズで先制を奪っている。
例外は、猛打を看板としていた06年(対東海大相模)だけ。15点を奪って大勝したこの決勝はヒッティングで先制している。
つまり、渡辺前監督がキャリア後期に夏の甲子園切符を手にした決勝の先制点は、5度のうち4度がバットを寝かせた状態から生まれているのだ。小技を成功させるには選手の技術もさることながら、サインを出すベンチ側の戦況や配球を読む力、相手との駆け引きなど、すべてをかみ合わせる必要がある。それを決勝という大舞台の先制点に持ってくることで、「やっぱり横浜は横浜だ」と相手に思わせる。
準決勝になるが、11年(対横浜創学館)にはなんと2死満塁からプッシュバントで内野間を抜いて2点適時打とし、先制している。創学館のエース住吉志允は「あれで飲み込まれてしまうんじゃないかと思った」と振り返っている。これこそが渡辺前監督、そして横浜が神奈川の頂点に君臨し続けるのに不可欠な「目に見えない力」だった。
「単純に打つ」大改革
話を昨年夏の決勝に戻す。
2-0のままの五回。2死二塁で、またも増田に打順が巡ってくる。初回にアーチをかけて打ち気の打者を見て、慶応バッテリーは追い込んでから高めにつり球を投じた。完全なボール球は、投じた森田晃介いわく「球1つ分だけ狙いより低めに行ってしまった」。打球は再び、左翼席へ飛び込んだ。
中押し、4-0。
最終的なスコアは9-3だったので、結果だけみればまさにこの2本で横浜は勝ったことになる。
神奈川高校野球連盟理事として、そして横浜OBとして試合を見届けた村田が驚いたのは増田の才能はもちろん、その「迷いのなさ」だった。
「特に初回のホームランは初球で、しかも緩いカーブ。最初から打つ気じゃないとなかなか手は出せないし、あそこまで振り切ることもできない」
ましてや決勝の初回だ。1死とはいえ1塁に走者がいる場面で、横浜ベンチが動いてもよかった。いや、今までの横浜なら盗塁なりエンドランなり、その「構え」だけでも何かしら仕掛けたはずだ。そうした揺さぶりがボディーブローになるし、相手の出方を読むことにもつながる。
平田監督が出していたサインは、「打てる球が来たら打っていけ」。ベンチにも一切の迷いがなかった。村田が分析する。「横浜が単純に打つ、投げる力で相手を上回るという王道の野球に徹した。だからこそ、あのホームランが出たんだと思う」
横浜はこの夏の神奈川大会で14本塁打を重ね、大会記録を3本も塗り替えた。総得点は7試合で65点とこちらもすごい。同じく猛打と言われた06年には7試合で83点を積み上げているが同年の本塁打は10本なので、16年夏がいかに思い切り振っていたのかが分かる。
平田新監督になって初めての夏に、横浜が本塁打の大会記録を塗り替えたのはもちろん、偶然ではない。振る力をつけさせ、振らせた。実にシンプルだが、横浜にあっては大変革と言ってよかった。