

2年前の夏から、いち早くマウンドで輝いてきたサブマリンは、今春の公式戦で4本塁打を放つなどスラッガーとしても急成長した。今季、守り勝つスタイルから攻撃的な野球へとチームカラーを変貌させた桐光学園の象徴でもある中川颯は「あと一歩で、自分のせいで負けてきた。この夏は、何としても家族やチームに恩返しをしたい」と思いを込める。
昨夏の横浜スタジアム。横浜に挑み、七回に同点弾を浴びて降板した準決勝を今も悔やむ。「チームの実力的にはうちの方が上だったと思うけど、横浜の渡辺監督が最後という雰囲気にのまれてしまった」
横浜には昨秋の県大会決勝でも敗れ、その後の関東大会の木更津総合(千葉)戦も七回に逆転を許した。目前にしながら逃してきた甲子園への思いは当然強い。
父の貴成さん(45)は1987年夏の甲子園に出場した横浜商(Y校)の好打者。その厳しさを知る父はプロゴルファーへの道を勧め、幼稚園の頃にはもうクラブを握っていたが、右腕は小学1年の時に自ら野球を選んだ。
「やるんだったら中途半端は駄目だぞ」。高校入学までの9年間は毎日、学校から帰宅したらすぐ父の職場に向かい、投球練習とティー打撃で夜遅くまでしごかれた。右打席ではゴルフのスイングの癖が出るため左打者として育てられ、下手投げは中学1年の時に「希少価値がある方が生きていける」と、渡辺俊介(元ロッテ)を参考に父と練り上げた。
夏の神奈川大会は既に過去2年で8試合35回1/3を投げ、その力は証明済みだ。最速は130キロながら、しなやかなフォームからの直球に「120キロでも詰まらせられる」と自信を持つ。アンダースローの利点を生かし、シンカーやチェンジアップとの緩急で打ち取る。
逆方向に本塁打を量産し、プロのスカウトはもっぱら野手として評価しているが、「日本を代表するアンダースローになってプロで活躍したい」と気持ちは固い。それでも「可能性を狭めずに投手と野手、両方の将来を考えてあげたい」と願う野呂雅之監督(55)の下で、「二刀流」で力を伸ばしてきた。
「地面から歓声が沸き上がってくる」と父から聞かされ、何度も一緒に訪れた甲子園。3歳上の先輩である松井裕樹(楽天)が1試合22奪三振の記録を打ち立てた2012年夏も、15三振を奪いながら敗れた準々決勝の光星学院(青森)戦を観戦し「いつかあのユニホームで」と憧れた。
「いつもあそこで投げたいと思っていた。マジで投げたいです」。右腕とバットで4年ぶりの栄冠を手繰り寄せる。
帽子に秘めた思い
「志」
野球を始めた小さい頃から、父に「志を高く持て」と言われていて、小学校時代からこの文字を書き続けています。夏の大会は、「恩返し」という言葉も書きたいと思っています。
なかがわ・はやて 投手。3年。大正中(横浜泉シニア)出身。184センチ、79キロ。右投げ左打ち。
