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受け継がれる系譜
「渡辺先生」と「門馬君」<2>倒さなければ、扉は開かない

高校野球 | 神奈川新聞 | 2015年8月10日(月) 13:06

永遠のライバル


 1970年代に「タテジマ」の名を全国に知らしめた東海大相模。当時、その背中を追い掛けていた横浜・渡辺元智監督は、全てを鮮明に覚えている。

 65年夏に福岡・三池工を甲子園初出場で頂点に導いた原貢氏(74)が、66年に東海の監督に就任。70年夏に同校初の全国制覇を遂げると、74年から4年連続で夏の甲子園に出場(原氏は77年に東海大に転出)。東海は、70年代だけで6度の夏の甲子園出場を記録した。この間の両校の公式戦対戦成績は、東海が8勝2敗と圧倒している。

 後に「永遠のライバル」と呼び合う間柄は、このあたりが起点となる。74年の神奈川大会決勝、保土ケ谷球場。4―1で横浜を下した原氏は試合後、一塁側ベンチに渡辺監督を訪ね、握手を求めた。「元ちゃん、ありがとう。甲子園ではいい試合をしてくるよ」

 渡辺監督は「あの時代はサガミの全盛期だった」と振り返る。「原さんに憧れて、全国から選手が集まってきた。原さんの個性がそのままチームの個性になって、豪快なバッターがゴロゴロいた。(自分も)ベンチで、選手だけでなく原さんを見ていたよ。原さんの人間性かな。(自分より)一回りも二回りも大きかった」。記憶は、畏怖の念とともにある。


決勝で敗れ、閉会式を見詰める横浜・渡辺監督(右)の後ろ姿
決勝で敗れ、閉会式を見詰める横浜・渡辺監督(右)の後ろ姿


 がむしゃらにぶち当たっては幾度とはね返された、苦い敗戦の数々。「しかし、『打倒、原! 打倒、原!』であきらめなかった。何年かかろうと倒してやろうと。そういう執念が花開いた」

 その東海と入れ替わるように、80年代に入ると横浜が新時代の到来を告げた。さらに横浜商(Y校)や桐蔭学園などが覇権争いに加わった。その中で横浜が頭一つ抜け出し続けたのはなぜか。渡辺監督は「うちが消えなかったのは、ヒルのようにしつこく、しがみついてきたから」と語る。今や「王者」と呼ばれる横浜は、原・東海を倒すための緻密な野球をさらに磨き上げ、神奈川の高校野球レベルそのものを底上げするまでになった。

 超えるべき最大のライバルが若き渡辺監督を奮い立たせ、爪を研がせた。「われわれ指導者は、挫折の繰り返し。栄光より挫折。勝利より敗北。その中で自分は覚えてきた。そりゃあ月日はかかりますよ。でもね、40歳ぐらいまでに見えないと(指導者として成功するのは)難しい」

 昨夏、時を経て再び吹き荒れた「タテジマ」旋風。東海・門馬敬治監督は、折しも40歳を迎えていた。

目指すべき存在



  東海大相模・門馬敬治監督が東海大のマネジャー、コーチとして仕えた監督が、70年代の東海の黄金時代を築き上げた原貢氏だった。

 「練習イコール試合なんてよく言うんですけど、本当にすさまじいまでの緊張感がグラウンドに張り詰められていた。バッティング練習ひとつが試合を想像させる。それがもう、全てですよね」。門馬監督はコーチ時代を振り返る。

 原氏は70年夏の全国初優勝を含め、タテジマを春夏合わせて8度の甲子園に導いた。その背中を追うように、73年春の甲子園で、当時28歳だった横浜・渡辺元智監督が史上2校目となる初出場初優勝を達成。7年後に夏の全国も制し、神奈川の高校野球を代表する顔になっていった。


1974年の神奈川大会決勝で優勝を決め、胴上げされる東海大相模・原監督=保土ケ谷球場
1974年の神奈川大会決勝で優勝を決め、胴上げされる東海大相模・原監督=保土ケ谷球場


 99年に母校の指揮官に就任した門馬監督にとって、原氏から薫陶を受けたタテジマの伝統が自らの後ろ盾となり、同時に大きなプレッシャーにもなった。立ちはだかったのはもちろん、横浜だ。

 「何も見えない中でのスタート。タテジマの伝統を生かし、つなげていくこと。とにかく突っ走るしかなかった」。2000年の選抜大会で初優勝するなど、春は甲子園に4度出場した。一方で「本番」(門馬監督)の夏は、神奈川大会決勝ではね返され続けた。

 勝てない中で、門馬監督の横浜への思い、渡辺監督への思いは、次第に変わっていった。「超えなければならないライバル」というのは変わらない。ただ「高校野球の歴史で、70年代から00年代まで、全ての年代で全国優勝されているのは渡辺先生だけ。時代が変われば指導法も野球も変わる。年を取れば選手との(年齢の)開きが増える。その中で対応されているのは、先生が言われている『変化』しかない」。それは、渡辺監督が原氏に抱いた畏怖に似た思いだった。

 指導者として、教育者として、模索する中でいつのまにか「渡辺先生は倒さなきゃいけない存在であり、一つの目指すべき存在」になっていた。

 「夏の扉を開くことが(新しい)サガミの一歩であることは間違いない」。加えて「僕にとってはどこが全国優勝しようが、ここなんですよ。渡辺先生、小倉部長の横浜。横浜を倒さなければ、やっぱり扉は開かない」。

 自身5度目の挑戦だった昨夏の神奈川大会決勝。再び横浜との決戦を迎えた。
(肩書や年齢は2011年2月当時のまま)

 
 

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