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名将、最後の夏 

高校野球 | 神奈川新聞 | 2015年6月14日(日) 12:34

渡辺元智(わたなべ・もとのり) 1944年松田町生まれ。横浜高校で外野手として活躍。卒業後はコーチを経て68年に24歳で監督に就任。春の選抜大会に15度、夏の全国選手権大会に12度出場。98年には松坂大輔投手(プロ野球ソフトバンク)や小池正晃外野手(現横浜DeNAコーチ)らを擁し、春夏連覇を達成するなど春は3度、夏は2度の全国制覇を果たしている。監督として挙げた甲子園通算勝利数51勝は智弁和歌山高校の高嶋仁監督の63勝、大阪・PL学園高校の中村順司元監督の58勝に次いで歴代3位タイ。

 松坂投手のほか、涌井秀章投手(ロッテ)や筒香嘉智外野手(横浜DeNA)ら50人以上の選手をプロ野球界に輩出しただけでなく、野球を通じた人間教育をモットーに選手を育成。時に寝食をともにするなど情熱的な指導で、ことし創部70周年を迎えた同校野球部を半世紀にわたり支えてきた。

2010年代

  • 2015/7 【神奈川大会】横浜がコールド発進 監督の期待に投打主軸応える
  • 2015/7 願うは「甲子園出場」 盟友と家族エール
  • 2015/7 名将最後の夏(下)思い背負い聖地へ 半世紀の集大成
  • 2015/7 名将最後の夏(中)打倒ライバル 目標は言葉に出せ
  • 2015/7 名将最後の夏(上)常勝への叱咤激励 伝統を守るために
  • 2015/6 熱い戦い「宿命」 甲子園に行く「唱えろ」
  • 2015/5 「自分に勝て」 勇退表明後の初練習 

  • 今夏限りの勇退表明後に現場復帰した渡辺監督=横浜高校長浜球場
    今夏限りの勇退表明後に現場復帰した渡辺監督=横浜高校長浜球場

  • 2015/5 「激戦区でこれだけやれて後悔なし」 監督インタビュー
  • 2015/5 松坂「あまりにショックで…」
  • 2015/5 今夏限りで勇退へ 後任は平田部長
  • 2015/2 「甲子園優勝目指す」 創部70周年記念祝賀会
  • 2015/2 「研究の余地あり」 タイブレーク制で見解
  • 2014/10 「小倉なくして4冠なし」 盟友に感謝
  • 2014/8 【動画】小倉コーチ、最後の指導
  • 2014/7 「最後に甲子園プレゼントしたかった」 小倉コーチ勇退

  • 準決勝で東海大相模に敗退。勇退する盟友・小倉コーチ(右)と握手を交わす渡辺監督=横浜スタジアム
    準決勝で東海大相模に敗退。勇退する盟友・小倉コーチ(右)と握手を交わす渡辺監督=横浜スタジアム

  • 2014/3 【選抜】1回戦敗退
  • 2013/8 【全国選手権大会】3回戦敗退
  • 2012/4 【動画】「女房に感謝」 渡辺監督が横浜文化賞受賞
  • 2012/4 【選抜】準々決勝敗退
  • 2012/3 甲子園通算50勝 「家族のおかげ」(当時の新聞)


    甲子園通算50勝を達成した渡辺監督=甲子園球場
    甲子園通算50勝を達成した渡辺監督=甲子園球場

  • 2011/8 【全国選手権大会】3回戦敗退
  • 2011/3 【選抜】1回戦敗退

    2000年代


    • 2008/8 【全国選手権大会】準決勝敗退
    • 2008/3 【選抜】初戦敗退
    • 2006/8 【全国選手権大会】1回戦敗退
    • 2006/4 98年以来の春頂点(当時の新聞)

      《優勝》


    • 1998年以来の頂点をつかみ取った横浜の選手ら=甲子園球場
      1998年以来の頂点をつかみ取った横浜の選手ら=甲子園球場



      <選抜写真特集>

    • 2004/8 【全国選手権大会】準々決勝敗退
    • 2003/4 【選抜】準優勝
    • 2001/8 【全国選手権大会】準決勝敗退
    • 2000/8 【全国選手権大会】準々決勝敗退
    • 1990年代



      • 1999/3 【選抜】1回戦敗退
      • 1998/10 【かながわゆめ国体】「4冠」で有終の美 公式戦無敗44連勝

        《優勝》

      • 史上初の4冠達成。「不敗神話」が完結した。たった一球のサヨナラワイルドピッチの悪夢から始まった松坂の挑戦が、彼自身を、そしてチーム全体を一回りもふた回りも大きくして、最強のチームとなった。横浜高校の監督に携わることが出来て、こんな幸せな監督はいない。[「いつも滑り込みセーフ」(渡辺元智著・神奈川新聞社発行)から]

      • 1998/8 【全国選手権大会】史上五校目の春夏連覇 松坂が無安打無得点達成(当時の新聞)

        《優勝》


      • 春夏連覇を達成して松坂(中列右から4人目)ら選手と記念撮影する渡辺監督(前列右から3人目)=甲子園球場
        春夏連覇を達成して松坂(中列右から4人目)ら選手と記念撮影する渡辺監督(前列右から3人目)=甲子園球場

        夏の大会写真特集

        PL学園との延長17回の死闘、明徳義塾には絶体絶命からの奇跡の大逆転…。いずれも素晴らしい相手に恵まれたからこそ、成し得た感激はひとしおだった。(中略)
        決勝戦でのノーヒットノーランというとてつもない大記録で春夏連覇を達成した。(中略)長かった監督生活が頭をよぎった。こうした苦しみの日々の中で理想と描いてきた高校野球がまさに形になった瞬間であったと思う。[「いつも滑り込みセーフ」(渡辺元智著・神奈川新聞社発行)から]


        松坂らと記念撮影する渡辺監督(右)
        松坂らと記念撮影する渡辺監督(右)

      • 1998/4 【選抜】73年ぶり2度目の優勝(当時の新聞)

        《優勝》


      • 「平成の怪物」が本当の意味で誕生した瞬間でもあった。(中略)振り返れば25年前。春夏連覇の夢は絶たれた。走馬灯のようによみがえり、すぐさま、夏の準備に取りかかった。今度は名コーチの小倉清一郎君がいる。二人三脚で春夏連覇を成し遂げてみたい。(中略)新たなる山を登るためには相当な覚悟がいる。私は選手たちに次の言葉を伝えた。「富士山に登る第一歩 三笠山に登る第一歩 同じ一歩でも覚悟が違う どこまで登るつもりなのか 目標がその日その日を支配する」[「いつも滑り込みセーフ」(渡辺元智著・神奈川新聞社発行)から]選抜写真特集

      • 1997/11 【明治神宮野球大会】沖縄水産を破り頂点に

        《優勝》

      • 1997/7 【神奈川大会】準決勝敗退
      • 松坂がスクイズを警戒して外した投球が暴投となりサヨナラ負けを喫した。(中略)私のショックと怒りは大きかった。
        私の目に松坂の号泣が映った。もう一度、私の人生をこの二年生たちにかけよう、と。小倉君と二人三脚の熱血指導が始まった。[「いつも滑り込みセーフ」(渡辺元智著・神奈川新聞社発行)から]

      • 1996/8 【全国選手権大会】3回戦敗退
      • 松坂との初対面の印象は、まったくと言ってよいほど私の記憶に残っていなかった。(この夏の甲子園でも)松坂はアルプススタンドで声援を送っていた。ただ、球が非常に速く「ヒョッとしたら」という印象が、脳裏のほんの一部に記憶されていた。(中略)松坂は「石ころ」だった。が、この石は磨けば磨くほど光り輝くダイヤモンド以上の原石だった。(中略)頭角を現しはじめたのは2年の春からである。[「いつも滑り込みセーフ」(渡辺元智著・神奈川新聞社発行)から]

      • 1996/3 【選抜】1回戦敗退
      • 1994/8 【全国選手権大会】初戦敗退
      • 1994/3 【選抜】2回戦敗退
      • 1993/3 【選抜】初戦敗退
      • 1992/3 【選抜】初戦敗退

        1980年代



        • 1989/8 【全国選手権大会】初戦敗退
        • 1985/4 【選抜】2回戦敗退
        • 1981/8 【全国選手権大会】2回戦敗退
        • 1980/8 【全国選手権大会】夏初の全国制覇(当時の新聞)

          《優勝》



        • 夏初優勝に輝いた愛甲(一番左)ら横浜の選手=甲子園球場
          夏初優勝に輝いた愛甲(一番左)ら横浜の選手=甲子園球場

          優勝決定のとき、スター投手(愛甲)の陰に隠れたもう一人のエースがマウンドにいた。守備をしていた全員が駆け寄って川戸に躍りかかる光景を眺める私の目から涙があふれた。(中略)以来、控え投手が川戸さんのようになりたいとよく口にするようになった。控え投手でも頑張っていれば檜舞台に立てる日がくるという内面的な伝統は脈々と受け継がれ、練習に活気を生んでいる。[「いつも滑り込みセーフ」(渡辺元智著・神奈川新聞社発行)から]


          夏初優勝を決めた渡辺監督(左)=甲子園球場
          夏初優勝を決めた渡辺監督(左)=甲子園球場

          夏の大会写真特集

          1970年代



          • 1978/8 【全国選手権大会】3回戦敗退
          • 愛甲は一年生のときから惚れ惚れする逸材だった。(中略)2回戦で徳島商に快勝すると予想もしない愛甲フィーバーが襲いかかった。「愛甲の甘いマスク、健闘、めぐまれない家庭環境」マスコミが飛びつきそうな材料が揃っていた。(中略)チームの空気が微妙に変化した。(3回戦の)県岐阜商戦で、あえなく散った。[「いつも滑り込みセーフ」(渡辺元智著・神奈川新聞社発行)から]

          • 1974/4 【選抜】2回戦敗退
          • 1973/4 【選抜】初出場初優勝(当時の新聞)

            《優勝》


          • 初出場初優勝に輝き抱き合う永川(左)らバッテリー=甲子園球場
            初出場初優勝に輝き抱き合う永川(左)らバッテリー=甲子園球場

            永川英植投手頼みのチームであった。選抜大会を一人で投げ抜き、栄誉をもたらした。やったぞ、とうとう登りつめたぞ。(中略)甲子園から凱旋した私を待っていたのは、夢のような境遇の変化だった。(中略)決して気を緩めたつもりはなかったが、結果として練習への情熱がどこか薄れた嫌いがあったに違いない。次は春夏連覇。目標だけは高く掲げながらも、夏の県大会準々決勝で桐蔭学園に敗れた。[「いつも滑り込みセーフ」(渡辺元智著・神奈川新聞社発行)から]


            横浜に凱旋し行われた優勝報告会
            横浜に凱旋し行われた優勝報告会

            夏の大会写真特集

            1960年代

            • 1968 監督に就任
            • 日本一厳しく、日本一長い時間やれば、日本一になれる。(中略)千本ノックは当たり前で、毎日のようになった。いわゆる根性野球である。(中略)良くも悪くも、これが初期の渡辺野球の姿だった。[「いつも滑り込みセーフ」(渡辺元智著・神奈川新聞社発行)から]

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