甲子園出場春夏5回。神奈川を代表する強豪の仲間入りを果たして久しい桐光学園だが、ちょうど20年前に転換点と言える試合が、横浜スタジアムであった。
夏の甲子園が80回目の記念大会となった1998年。東神奈川大会でノーシードから勝ち上がった桐光は7月28日、甲子園切符を懸けた決勝の舞台に初めて立っていた。
松坂大輔(中日)の横浜との対戦を前に、監督・野呂雅之(57)はこう言ったという。「決勝の雰囲気は想像がつかない。ミスを怖がらずにぶつかるしかない」
マウンドの松坂に対し、野呂はスライダーを見極めようと打席の一番後ろに立たせた。三回に押し出し四球を奪い、「平成の怪物」の大会無失点を止めた。ただ、投手陣は二回に松坂に先制ソロ本塁打を浴びるなど失点を重ねた。
結果は3-14。それでも閉会式後、選手たちから胴上げされた野呂の表情に悲愴(ひそう)感はなかった。「最善の対策を打ったから。相手が横浜、松坂というのは関係なかった。あと一つ勝つために足りないものを探し求めることができた試合だった」
監督就任から14年たっていた。早稲田実業、早大を経て84年に新卒で名前さえ知らなかった桐光にきたころは「頼むところがなかった」と、母校の恩師に連絡して練習試合を組んでもらった。
その夏の神奈川大会でいきなり桐光旋風を起こす。選抜出場校の法政二と横浜を撃破し、ベスト8入りを果たしたのだ。
「高校時代に横浜や法政二とは練習試合をやっていたし、卒業後に(3期下の)荒木大輔が甲子園決勝でやっていて、びっくりすることでもなかった。あの頃のメンタルは学生さんとそんなに変わらない。怖いもの知らずだったよね」
14年かかってたどり着いた舞台だったからこそ、「10年に1度はノーシードから決勝に行くのは勝負事なら有り得る。周りからフロックだったと言われないようにしなければ」と、その後が大事だと感じていた。
「選手が替わっても神奈川のトップ集団に入るチームづくり」を徹底していった。OBコーチやトレーナーを入れて先進的な選手の体づくりに取り組み、栄養士による保護者向けの講習会もいち早く始めた。以来、夏は20年間で県4強以上の成績を収めたのが15回と安定感は随一だ。
伝統が色濃い横浜や東海大相模と異なり、桐光はどこかチームカラーが見えづらい。「打撃力が弱いならスコアは3-2とか2-1でいい。投手力が弱いなら7-5、8-6。毎年基本は同じ。その外側にその年のチームの色を付けていくイメージかな」。激戦区において野球の質を少しずつ変貌させながら、勝ち続けてきたことが野呂らしさなのだろう。