
神奈川大学リーグで桐蔭横浜大を10度頂点に導き、2012年の明治神宮大会では創部7年目で県勢初となる日本一に導いた。
神奈川の雄を率いる齊藤博久(52)も、桐蔭学園時代は選手としてスポットライトを浴びたわけではない。背番号12の控え捕手で、3年夏の神奈川大会で与えられた役割は三塁コーチャー。大会を通じてマスクをかぶったのは一度だけで、5回戦に山本昌広を擁する日大藤沢に敗れた試合で、最後の打者として代打で三ゴロに倒れた。
ただ、2年まで教わった監督木本芳雄に与えられたコーチャーの仕事に誇りを持っていた。将来は指導者の道をイメージしていたからだ。
きっかけは横浜・谷本中時代に出会い、「勝利への執念深さを教えてもらった」という女性監督・石津紀子の存在だ。齊藤が副主将を務めたチームは「相手のサインを盗んだりもする緻密な野球」で県中学総体優勝。時に手を上げられ、厳しさも味わったが、「正月返上でマンツーマンで捕球練習をしてくれた」と、選手に寄り添う人情味あふれる指導スタイルに引かれた。
だから、高校最後の夏の初戦を前に後任の土屋恵三郎には、こう直談判した。「僕に20分だけ時間を下さい!」
メンバーを集めて、状況別の走塁や盗塁、アウトカウントやボールカウント別のけん制の注意点などを熱く講釈した。「理論も、力もないくせに。人に物事を教えるのが好きだった」
体育教諭を志し、2浪の末、日大に進んだ。学生コーチとして東都リーグの1部昇格に貢献した4年秋、土屋の紹介で茨城の水戸短大付(現・水戸啓明)監督に就いた。
その夏と前年は1回戦敗退していたチーム。前任監督がスパルタ式だったこともあり、選手が指導者の顔色をうかがっているように感じられた。「まず野球の楽しさを伝えようと思った。打撃、規律、モチベーション。こういうときは土屋監督だったらと考えて」
1年目の1990年夏、茨城大会でいきなり準優勝を飾った。「ただ、それが間違いの始まり。結果が出たことでどんどん強くしようと思い自分を見失い、俺の指導は正しいんだって生意気になっていった」
5年後、茨城大会で公立校に4回戦で敗れた直後だった。学校から「勝てないなら辞めてくれ」と通告された。厳しい指導が、保護者にも物議を醸していた。
それは、まさに桐蔭での高校時代に自らが見ていたことでもあった。
かつて全国制覇した監督・木本に教わったが「とにかく怖いイメージしかなかった。声を掛けられるような間柄ではなかった」。2年夏に初戦敗退して木本が退き、監督は若い土屋に交代し「この人についていけば結果がでるかも」と予感通りに翌春に選抜初出場する桐蔭の変革期だった。
しかし指導者となった齊藤は、気が付いた時には選手たちとの距離が生まれてしまっていた。