1. ホーム
  2. スポーツ
  3. 野球
  4. 高校野球
  5. ナンバー2の矜持 横浜、横浜商 小倉清一郎(下)

名指導者編 88/100
ナンバー2の矜持 横浜、横浜商 小倉清一郎(下)

高校野球 | 神奈川新聞 | 2018年5月18日(金) 02:00

母校・横浜時代からの盟友で、二人三脚の指導で名門へと築き上げた小倉(右)と渡辺 =2006年3月
母校・横浜時代からの盟友で、二人三脚の指導で名門へと築き上げた小倉(右)と渡辺 =2006年3月

母校・横浜時代からの盟友で、二人三脚の指導で名門へと築き上げた小倉(右)と渡辺 =2006年3月
母校・横浜時代からの盟友で、二人三脚の指導で名門へと築き上げた小倉(右)と渡辺 =2006年3月

 生まれ育った横浜・本牧の街を歩けば、見知らぬ通行人も会釈して通り過ぎていく。小倉清一郎は地元の英雄だ。

 緻密なデータ分析でコーチや部長として40年間、高校野球で指導を続け、2014年夏を最後に勇退。静岡・東海大一(現・東海大静岡翔洋)、横浜商(Y校)、母校で同級生の渡辺元智が率いていた横浜を渡り歩き、春夏通算31度の甲子園出場に貢献した。

 3人きょうだいの長男。戦後、本牧地区は米軍による接収が続き、軍人、軍属やその家族らの居住地が広がっていた。

 間門小5年時、米軍人の子どもたちでつくる野球チームとの親善試合があった。小倉少年も参加した同小チームの一つ上には、後に法政二で全国制覇する柴田勲(元巨人)もいた。

 小倉の並外れた「野球脳」はこの頃から育まれていった。スポーツ新聞や野球専門雑誌を買っては読みあさり、役立つ知識を詰め込んでいった。

 裕福な家庭だったわけではない。「金なんてありゃしないよ」。近くの三渓園で花見シーズンになると園内に残ったビールの空き瓶を集め、リヤカーに載せて酒店へ売りに行く。その資金で雑誌やチームの野球道具なども買いそろえた。単にずぶといだけでなく知恵を絞って行動する少年だった。


理論派捕手として名をはせた横浜時代。神奈川大会準決勝の鎌倉学園戦でマスクをかぶるのは小倉だ=62年7月
理論派捕手として名をはせた横浜時代。神奈川大会準決勝の鎌倉学園戦でマスクをかぶるのは小倉だ=62年7月

 捕手として名をはせた横浜時代。例えば、外野からのバックホームの守備だ。わざと「間に合わない」というジェスチャーを走者に見せ、油断してスピードを緩めたところで本塁封殺する。

 こうした常人では思いつかない“個人技”も身に付けていた。だが、ついぞ甲子園には届かず、東農大~社会人時代にプロも目指したが、プレーヤーとしては大成しなかった。


横浜で1年だけ監督を務めた小倉。右は中田良弘(元阪神)=77年7月
横浜で1年だけ監督を務めた小倉。右は中田良弘(元阪神)=77年7月

この記事は有料会員限定です。

月額980円で有料記事読み放題/100円で24時間読み放題のコースも。詳しくはこちら

横浜高校に関するその他のニュース

高校野球に関するその他のニュース

PR
PR
PR

[[ item.field_textarea_subtitle ]][[item.title]]

野球に関するその他のニュース

アクセスランキング