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名指導者編 85/100
「3校で甲子園」の偉業 桐蔭学園・藤嶺藤沢・武相 木本芳雄

高校野球 | 神奈川新聞 | 2018年5月14日(月) 02:00

71年夏、監督として初となる甲子園でブロックサインを送る木本
71年夏、監督として初となる甲子園でブロックサインを送る木本

71年夏、監督として初となる甲子園でブロックサインを送る木本
71年夏、監督として初となる甲子園でブロックサインを送る木本

 100回目を数える夏の甲子園の歴史にあって、それは信じがたい快挙だった。

 大卒3年目の24歳の青年が創部5年目の新参校を指揮し、初出場で初優勝。1971年、木本芳雄(71)が桐蔭学園を率いて成し遂げた日本一は、偉業という言葉では足りなかった。

 原動力はひとえに、母校への恨みだった。


1964年夏、武相の現役選手として神奈川を制した木本。準々決勝の横浜戦でホームインする
1964年夏、武相の現役選手として神奈川を制した木本。準々決勝の横浜戦でホームインする

 武相出身の木本は、3年夏には一塁手として甲子園に初出場した。だが、足のけがを理由に指導者を勧められ、駒大入学時から母校のコーチを頼まれた。

 「自分が大学を卒業するまでの5年間で武相は4度夏の神奈川を制している。間違いなく黄金時代だった」

 木本の一番の仕事は、有望な中学生を探すことだった。その熱心さは、当時の神奈川新聞に「木本がスカウトした後にはぺんぺん草も生えない」と記されているほどだ。


優勝行進で賞状を持つ木本。高校時代は副キャプテンを務めた=64年7月
優勝行進で賞状を持つ木本。高校時代は副キャプテンを務めた=64年7月

 大学3年時に当時の監督が辞めた。空位のような状態になり、木本が実質的に監督を務めた。「学校側は教員になれるよう、大学の学費まで出してくれていた」。あとは正式な打診を待つだけと思っていたが、別の指導者が監督に就任。学内の“大人の事情”ではしごは見事に外された。

 拾う神があった。知り合い伝いに、桐蔭の監督に誘われた。迷いはなかった。大学4年の6月から早速指導を始めた。思いは一つだった。

 「絶対に武相を倒す」

 桐蔭は全くの無名だったが、中学の指導者が選手を送ってくれた。「私に同情してくれたんです」。自らが集めた“1期生”たちは春、夏と武相をなぎ倒したばかりか、日本の頂点にまで連れて行ってくれた。

「田丸野球」受け継ぎ

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