「勝ちたい」という執念を燃やし続けて半世紀。振り返ってみれば1970年代から2000年代まで、全ての年代で全国優勝している指導者は全国でも渡辺元智(73)だけだ。勝ち負けで言えば、十分に勝ってきた。
ただその強さを語るには、やはり前人未到の公式戦無敗、44連勝を成し遂げた松坂大輔を擁した98年のチームが欠かせない。「終わってみれば悔いばかり。すべて悔いが残る」という渡辺が唯一の例外とする1年間だ。
渡辺自身はあの松坂世代をどう見るか-。
それは意外にも「ある意味で人為的な勝利」だという。最強世代と言われる類いまれなタレントが集まったことは間違いないが、44連勝に向かうまでの数年間のプロセスに、渡辺野球の本質が詰まっているというのだ。
この渡辺の思いを理解するには、松坂世代の4年前、94年のチームを振り返る必要がある。
春夏連続で甲子園に出場したチームには、紀田彰一(横浜ドラフト1位)、斉藤宜之(巨人ドラフト4位)、多村仁(横浜ドラフト4位)、矢野英司(法大から逆指名で横浜)と、後にプロ入りした好素材がずらっと並んでいた。
それまでの横浜にあっては異色と言える自由なチームだった。力はあるが「どうしようもない、やんちゃ」という選手たち。そのころの渡辺は、もう頭ごなしに指導することはない。選手の意見を採り入れて髪型はある程度自由で、帽子を脱ぐと前髪が揺れた。
しかし、優勝候補として臨んだ夏の甲子園では、初戦の2回戦で那覇商(沖縄)に2-4で敗退。紀田は4打席四球でバットを振らせてもらえず、斉藤も多村も無安打。神奈川大会で「モノの違い」を見せつけてきた強打のチームは、先行されるロースコアの展開にもろさを露呈した。「(序盤で)スクイズも考えたが…」。珍しく歯切れの悪い試合後の渡辺のコメントに苦しさがうかがえる。
「力はダントツにあった。だから練習試合ではものすごく打つんだよ。紀田が、斉藤が、カッキンカッキンってね。だけどその個がチームとして生かされたかというと、直結はしなかった」。紀田も斉藤も矢野も、プロ入り後は故障に苦しんだ。「もっと好きにやらせた方が良かったのかもしれない。でも好きなようにやらせたら、あの個性派がまとまったかどうか」