

あの日から世界が変わった。1987年7月12日、神奈川大会1回戦の二宮戦。平塚球場に詰め掛けた野球ファンは、鎌倉学園のエース若田部健一(48)の投球にくぎ付けとなった。
三回までに7連続三振を奪い、うなるような速球とタイミングを外すカーブとのコンビネーションで打者を寄せ付けない。17奪三振。許した走者は失策と四球のみでノーヒットノーランを達成した。
「テレビ神奈川とかに注目されて、周りが変わっていった。社会って怖いな、と思った」。本格派右腕の登場に、夏の甲子園が長年の悲願となっていた古豪への期待が高まっていった。
大船中の同級生の兄が鎌倉学園で主将を務めていた縁で、胸に「K」の入ったユニホームに憧れた。1978年から指揮を執っていた監督の武田隆(62)は一目でその才能にほれ込んだという。「これは間違いなく全国区。体の使い方のしなやかさ、腕の振りのしなりが全然違いました」
入学直後から、投打でポテンシャルの高さを見せつける若田部に、当時29歳の青年監督は甲子園の夢を託せると思った。2年夏には「エースで4番」のポジションを与えた。
「お前がやらなければこのチームは勝てない」。自分たちの代のチームが始動した秋田での合宿中に、若田部は武田からそう言われたことを今も記憶している。
「2年からチームを代表して投げていて、中心選手になるという欲もあったし、みんなを引っ張る存在になりたかった」。強烈なメッセージは右腕に責任感を芽生えさせた。
しかし、結果にはなかなか実らなかった。秋季県大会の1回戦では、後に花咲徳栄(埼玉)の監督として夏の甲子園を制することになる岩井隆らがいた桐光学園に2-11で完敗。変化球を捨て、直球一本に絞った桐光打線にめった打ちにされた。翌春も地区予選敗退。最後の夏はノーシードで迎えた。

