
1990年。公立校が輝いた夏だった。県立の神奈川工との決勝を制したのは横浜市立の横浜商(Y校)。以来、公立勢同士の決勝も、優勝校も出ていない。8強に公立5校が残り、迎えた準々決勝。神奈川の球史に刻まれる名勝負が繰り広げられていた。
7月27日、平塚球場。厚木の川村丈夫(現ベイスターズ2軍投手コーチ)はチームを夏の第1シードに導いた大会屈指の好右腕。その呼び声通りの快投で勝ち進んだ。対するのは川崎北の河原純一(愛媛マンダリンパイレーツ監督)。ノーシードながら横浜商大、山北を連続完封し、勢いづいていた。
五回に厚木が先制、八回に川崎北が追い付き1-1。投手戦のまま試合は延長に突入した。攻守交代の際、川村はマウンドへ駆けてくる河原目掛けてボールを投げ続けた。河原は「僕は暑いから早くベンチに帰りたくてプレートにすっと置くだけ」。スコアボードにゼロが並んでいった。
「早く点を取れよ」。川崎北は延長に入ってもチャンスらしいチャンスをつくれないままイニングが進んだ。河原は休む間もなく次のマウンドに向かう。
後に巨人でポーカーフェースの守護神と称されることになる右腕は、沸き立つ本心をかき消し、淡々と投げていた。「ランナーを出しても点を取られなければいいと思っていた。相手がどうこうではなく、自分が抑えるしかないチームだから」。相手エースへのライバル心もなかった。
もう一人の主役は熱かった。「河原君より先にマウンドを降りたら負けだ」

試合前は力を出せれば勝てるだろうと思っていた。「相手も公立。私学と戦うときによくある最初からの敗北感はなかったから」。でも回を重ねると不思議な感覚にとらわれた。「相手打線じゃなくて彼(河原)と戦っていた」
