“山の子ナイン”の快進撃-。当時の本紙は、ベスト4まで勝ち進んだヒーローたちの躍進をそう伝えた。
だがそれは決して、勢いや運が生んだ物語ではなかった。強豪私学と互角に渡り合った「山北旋風」は、純粋に強いからこそ起きたのだ。
1985年の夏。神奈川西端の町からやってきた県立高校のナインが、負ければ終わりのトーナメントを力強く駆け上がっていた。クライマックスは5回戦だった。
相手は法政二。前年春の甲子園メンバー5人が残る優勝候補の一角。山北高校は創部10年目の新興勢力だったが、夏は前年が武相、前々年は横浜に、いずれも1-2で惜敗と強豪を追い詰めていた。
0-2で迎えた八回だった。2死満塁から4番小松善雄の強烈なライナーが、三塁手のグラブをはじいた。外野へボールが転々とする間に、2者が生還して同点。続く善波厚司(現青学大コーチ)が中越え二塁打を放ち、走者を一掃した。
そのまま4-2で下すと、準々決勝でも綾瀬を破り、ついに準決勝まで進んだ。大一番を控えた休養日には、学校のグラウンドに町長が激励に訪れた。山梨、静岡との県境、丹沢湖を抱える山あいの町にとっては、まさに一大事だった。
当時の主将で4番の木村壽宏が笑う。「横浜スタジアムに見に来た人のほとんどは、そこで初めて『山北』を知ったんじゃないですか。でも俺らはそれだけの練習をやってきたんだという、強い気持ちがありました」
善波と板倉直行の両投手は、ともにプロのスカウトからも一目置かれる好投手だった。野手も100メートル11秒台の俊足が4人もそろっていた。ただ人口わずか1万4千人ほどの町にある唯一の高校に、これだけの戦力が集まったのは、偶然ではなかった。