
深紅の大優勝旗が初めて神奈川に渡ってから、もうすぐ70年になる。
創部4年目の湘南が全国制覇を果たしたのは、まだ連合国軍の占領下にあった1949年。県勢はこれまで7度の栄冠に輝いたが、公立校の日本一は後にも先にもこの一度だけだ。「無欲の勝利」と伝えられた湘南ナインの偉業が野球王国神奈川への道しるべとなった。
「僕はラッキーボーイですね、やっぱり」
今秋には85歳になる老紳士は、愛車のハンドルを自ら握って約束の場所へさっそうと現れた。76年から12年間、深夜のプロ野球ニュースを担当し、穏やかな語り口で人気を博したスポーツキャスターの佐々木信也だ。
当時1年生ながら、左翼手として全4試合に先発フル出場。165センチ、56キロの小柄な体で計6安打を放って初出場初優勝に貢献した。全国を驚かせた快挙は美しい記憶として刻まれている。
慶大では「早慶戦男」の異名を取り、4年間のプロ生活を経てキャスターに転身した佐々木にとって、甲子園は「忘れられない成功体験。大舞台に強くなれた」。初戦こそ金縛りのような緊張に襲われたが、監督だった父・久男の試合後の言葉で解き放たれたという。
「もう、いつ負けてもいい。一つ勝ったら大威張りで藤沢に帰れる。あとは付録みたいなもんだから」。一発勝負のトーナメントの悲壮感とは無縁だったのも、当時のおおらかなチームカラーを表していた。

4試合でチームの失策は13。佐々木自身も市松本(長野)との準々決勝で大きな“ミス”を犯している。三回に右中間へ三塁打を放ったが、ベンチの「ホームへ走れ」の声でそのまま本塁突入。だが、ベースの手前5メートルで、ボールを手に待ち構える相手捕手が見えた。
九回のサヨナラ安打で挽回したが、「後でおやじが『甲子園で信也に一本ホームラン打たせたかった』と。そんなちょんぼをしても勝っちゃうんだから」と笑い飛ばす。
優勝の翌々日、夜行列車で帰県したナインは、藤沢駅で大歓迎を受けた。「市民が全部集まったんじゃないかと思うくらい。そこから学校までスパイクシューズで砂利道を歩くのは本当につらかった。一応パレードです」
戦後間もなく野球用具どころか、食べる物にも困った時代だ。「野球が楽しくて楽しくて。戦争中はそれどころじゃなかったから」。白球を追う幸せな時間は、多くの困難を忘れさせた。
もっとも、「一番うれしかったことは何かと聞かれれば、迷わず神奈川大会で優勝した瞬間を挙げますね」。プロ野球・日本ハムの監督などを務め、「親分」と呼ばれた同学年の大沢啓二(県商工)との対決に思いを巡らせた。
今夏100回の節目を迎える夏の甲子園に向け連載中の「K100 神奈川高校野球」。4月の「伝統校&公立編」では、最激戦区・神奈川で一時代を築いた名チームや、甲子園出場には届かなかった名物選手の声を伝える。