

当時の横浜には、鉄則があった。
試合前の整列は、相手より先に行くな。あいさつ後は、相手から目を離すな。ベンチに戻るのは、相手がはけてから。
要は、「なめられるなよ」ということだ。
そんなことを言われなくても、選手の鼻息は十分すぎるほど荒かった。1980年8月22日。渡辺元(元智)率いる横浜は、エース愛甲猛を中心に悲願の夏の甲子園制覇まであと1勝と迫っていた。
決勝で対したのが、日本中に「大ちゃんフィーバー」を巻き起こした、荒木大輔(53)=現日本ハム2軍監督=を擁する東東京・早実だった。背番号11の1年生は、準決勝までの5試合を投げ4完封、44回1/3を無失点という快投を続けていた。異様な熱狂は、横浜戦でピークに達しようとしていた。
荒木は試合前の整列で、つかみかからんばかりだった横浜ナインの印象をよく覚えている。
「こういう言い方は失礼かもしれないですけど、早実からしたら一番嫌いな感じなんですよ。眉毛をそったり、頭にそり込みを入れたりしている人が、メンチを切ってくる。もういいよ、普通にやろうよって。これの何がいいんだろうって思っていました」
かつて“ヨタ校”と呼ばれた気風が、まだ残っていたころだ。監督の渡辺を含め、横浜は「ばりばりの武闘派集団」。対する早実は、渡辺いわく「スマートで都会的なチーム」。相いれるわけがなかった。
当時の新聞をめくると、決勝を前に意気込みを聞かれた荒木は愛甲の名を挙げ、「偉大な投手。対戦したかった」と答えたことになっている。元不良の愛甲に対し、さわやかで初々しい荒木。両スターが対決する構図は、あまりに分かりやすかった。
ただ本人は「そんなこと言った記憶はないなあ。多分、取って付けたように答えたんだと思います」。もちろん優勝したかったが、先輩投手の相次ぐ故障で東東京大会から急造エースとなった16歳は、自分のことで精いっぱいだったのだ。
「だって高校に入ってまだ数カ月。何にも分からないままに決勝まで来て、早実のメンバーにさえ遠慮しているような状況でしたから。横浜で名前が分かるのが、愛甲さんと安西(健二)さんくらい。ただ先輩捕手の要求するコースに、丁寧に投げようと。それだけを考えていました」
この絶妙な「かみ合わない感じ」は、勝敗の分水嶺(れい)にもなっていく。
試合は、初回から大きく動いた-。

今夏100回の節目を迎える夏の甲子園に向け連載中の「K100 神奈川高校野球」。3月の「全国のライバル編」では、神奈川のチームと熱戦を繰り広げた全国の強豪校の元選手や監督に問い掛ける。神奈川勢との激戦で感じたことは何ですか?