

普段はシャイな左腕が、燃えていた。
「横浜は間違いなく神奈川ナンバーワンだった。勝てば甲子園に行けると思っていた」
2001年夏の神奈川大会準々決勝。横浜商(Y校)のエース山口鉄也(34)が、横浜との「YY対決」のマウンドに上がった。今でこそ力の差が開いている両校だが、当時はまだライバルと言える関係にあった。しかもY校は、春夏8度甲子園に導いた元監督の古屋文雄が校長を務め、長男・克俊が捕手を任されるなど甲子園へのムードが高まっていた。山口の力みも、決して蛮勇ではなかった。
初回、いきなりの2死一、二塁。焦っていた。リードの大きい横浜の走者に対し、サインは「外角に外しキャッチャーけん制で二走を刺せ」。これを、見落とした。

直球が甘く入った。5番大河原正人(東芝)の打球が二塁に寄っていた遊撃手の逆を突き、先制打となった。連続四死球と中前打で畳み掛けられ、重い4点を失った。
「正直言うと、その時点でもう、駄目だなと諦めかけました」
以降は立ち直った。1-5で敗れたが、手も足も、とは思わなかった。それでもやはり、横浜の強さが印象に残った。
「横浜はすごいうまい野球をしてきた。自分のクイックが良くないのを知っていて、どんどん揺さぶりをかけてくる。プロみたいな野球だった」
横浜の主将は現監督の平田徹が務め、荒波翔(横浜DeNA)や円谷英俊(元巨人)、エース畠山太(元富士重工)ら、充実の布陣だった。甲子園でも下馬評通り、4強まで勝ち上がった。
山口はほぼ無名のままに終わった。