ただ号泣する仲間の横で、東海大相模の菅野智之(28)は、「一ミリも泣かなかった」。胸中の大半を占めたのは、安堵(あんど)の思いだった。
「これで明日から、練習しなくてすむんだ」
2007年7月29日、神奈川大会決勝。30年ぶりとなる夏制覇を目前としていた。桐光学園との一戦は、神奈川の球史に残るシーソーゲームとなった。
東海大相模は2年生の大田泰示(現日本ハム)が先制2ランを放つと、逆転された三回裏にすぐさま再逆転。六回には2点を加え、8-5とリードした。
だがその六回のワンプレーが流れを変えた。田中広輔(現広島)が、中越えの当たりで一気に本塁へ。やや遅れて突っ込んだ田中のスパイクが、桐光の捕手・奥野智也の太ももに突き刺さった。
ユニホームが破れ、流血する。これに燃え上がった桐光は直後の七回に3点を追いつく。九回には負傷退場の2年生捕手に代わった3年の山野周が決勝打を放ち、10-8のドラマを完成させた。
結局、菅野は169球で投げ抜き、13安打を許し、10点を失った。
あの夏から、10年あまり。「こんなこと言うと怒られるけど」と前置きして、当時の心境をこう吐露した。
「正直、早く終わってほしいと思っていた。こんなに苦しいのは、早く終わってくれと。死ぬと思いましたもん。それくらい追い詰められていた。涙なんか出てこない。あのクロスプレーで治療やっている時も、もうどうでもいいから早くしてくれよって、それだけ考えていました」
準々決勝以降、ほぼ1人でマウンドを守った。前日の準決勝も168球を投げていた。
「無理っすよ。投げられない。あんなに。球数もそうだし、ほとんど僕しか投げていない。神奈川の夏は最低2人いないとだめだし、選手生命をつぶすことになる。最近の甲子園で相模が優勝した時も、エース級が2人いた。やっぱりそうやっていかないと」
もう1人、一線級の投手がいたら-。
あの夏。悔やみきれない大きな「たら、れば」は、もう一つあった。