それはもう「何とも冴(さ)えない試合」としか、言いようがなかった。
2006年7月22日。2年夏の神奈川大会、4回戦だ。今や球界のエースと称される東海大相模の菅野智之(28)は、慶応藤沢を相手に先発し、5回を8安打3失点で降板した。11-3の七回コールドと結果的に大勝したが、当人が納得するわけがなかった。
翌朝、愕然(がくぜん)とする。スポーツ新聞各紙を自分が飾っているのだ。派手な見出しが躍っていた。
巨人・原監督の誕生日に、甥(おい)っ子が勝利をプレゼント-。
22日は、叔父のバースデーだった。
「全然良いピッチングでも何でもないのに、それでしたからね。うわあ、とんでもないと恐ろしくなりました。改めて、本当に原辰徳という存在はすごいんだなと思いましたね」
菅野は高校時代の一番悔しい思い出として、この一戦を挙げる。すべてを差し置いて「原の甥というキャラクター」が優先される現実に、16歳の少年は傷ついた。
もとより、覚悟していたことではあった。