1960年代初頭。甲子園で3度にわたり、「怪童」尾崎行雄(浪商)と熾烈(しれつ)な投げ合いを演じた法政二のエース柴田勲。そのライバルは尾崎だけではなかった。いや、ともに激戦区・神奈川を戦った1学年上の剛腕こそ、真の宿敵であった。
「高校生で本当にすごいなあっていう球を投げていたのは3人いてね。尾崎と江川卓(作新学院)、あとはやっぱり、渡辺さんだよね。あの人に勝ったっていう自信があったから、甲子園で初めて優勝できた」
渡辺泰輔-。
59年秋の県大会を制すると、関東大会では3試合で53三振を奪って優勝。戦後初の選抜大会に出場し、ベスト8に名を連ねた。センバツ帰りの渡辺はまさに無敵だった。直球は重くうなりを上げ、60年春の県大会決勝では法政二をわずか被安打1で退けた。
当時の神奈川高校野球は法政二と慶応の2強時代だった。夏の神奈川大会は法政二が52年に初制覇して以降、54年の鶴見工を除いて62年まで両校が優勝を独占。当時の県高野連関係者が「法政二と慶応を甲子園に送るためにやっているようなものでつまらないや」とぼやいたほどだった。