
1980年夏、第62回全国高校野球選手権大会決勝。3270校の頂点を決めるマウンドで、横浜のエース愛甲猛(55)は大きな挫折を味わった。
「野球って筋書きのないドラマとはよく言われるけど、これは誰かが筋書きを書いたんだな、と思ったよ」
準決勝第2試合は雨で順延。休養日が愛甲にはマイナスとなった。
「今だから話せるけど…」。決勝前日。監督・渡辺元(現・元智)のはからいで、芦屋・竹園旅館で同宿だったプロ球団のトレーナーにマッサージを施された。ただ、不慣れな体はもみ返しに見舞われたのか、肩、肘の痛みはピークに達していた。
早実(東京)の荒木大輔と投げ合った。五回を終えて5-4。1年夏に「あと4回出られる」と高をくくっていた聖地には、高校最後の夏まで戻ってこられなかった。「マウンドは誰かに譲るものじゃない」との思いは強かったが、限界だった。独りよがりの男がブルペンに目をやった。
同級生の川戸浩が、いつになくキレのあるボールを放っていた。野球人生で初めて、監督に自ら降板を申し出た。
渡辺の執念が、選手に乗り移った大会だった。神奈川県庁を表敬訪問した際に、指揮官は選手の前で誓った。「優勝旗を持って帰ります」
35歳の指揮官は横浜の名を全国にとどろかせる好機とみていた。起床は午前5時、2年前の甲子園では許された外出も禁止。2回戦を終えると「決勝まで会えないから今のうちに会っておけ。長くなるぞ」と選手の家族が宿舎に集められた。
「あんな監督さん初めて見た。当時の高校野球といえば箕島の尾藤(公)さん。尾藤さんに勝つという執念がすごかった。勝った後の喜び方も尋常じゃなかった」。前年に春夏連覇を達成していた箕島(和歌山)とは準々決勝でぶつかった。1-0の二回にスクイズで追加点を奪うなど、箕島のお株を奪う積極采配で関西の名門を破った。
決勝戦、六回以降を左腕川戸が無失点に抑え、歓喜の瞬間を迎えた。
愛甲は振り返る。「悔しかった。でもそれ以上に勝ちたかった。川戸の姿を一番喜んだのはきっと監督さん。俺たちの代にとって最高の終わり方だった」。一塁手として歓喜の瞬間を迎えた。
