◇新潟の子どもに夢を
高校2年の秋に出場を果たした一昨年の明治神宮大会。北信越大会の覇者、新潟・日本文理高のエース飯塚悟史は、決勝で屈辱に近い感情を抱いていた。
四回の第2打席で右翼席へソロ本塁打を放ち、続く第3打席でもバックスクリーンへ2ランを運んだ。打者として鮮やかなバッティングを見せたが、本職のマウンドでは散々だった。
六回を終わって8-0の大量リードから七回に3点、八回には一挙6点を失い、逆転負けを喫した。「後で映像を見返したら自分でも気付かなかったけど、ホームランを打たれて笑っていた。普段ならあり得ない。油断があったんだと思う」
決勝での敗戦後、周囲につけられた異名「越後のゴジラ」も気持ちにさざ波を立てた。「バッターとして見られているのが本当に悔しかった」。新潟に帰ると、投手というポジションに向き合う日々が始まった。
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幼いころから球速では誰にも負けなかった。高校1年の秋には141キロをマーク。「入学時は高2で145キロ、高校3年のときには150キロ出るんじゃないかと思っていた」。スピードへのこだわりが強かった。
ただ、勝てる投手と球が速い投手はイコールではない。「自分が1年のときに二つ上の先輩に140キロを超える投手が2人いたけど、(夏の新潟大会で)ベスト8に入れなかったのもあって。そこに気付いていなければプロには来られてなかったと思う」。明治神宮大会での自分自身の投球にもあらためて気付いた。
磨いたのは制球力だった。冬は左右に打者を立たせてインコースへ投げ続けた。「それまでは数を意識していたが、毎日課題を持って投げるようになった」。成果は春に実を結んだ。
一冬越した選抜大会。初戦で延長十三回の末に3-4でサヨナラ負けしたが「思うようにカウントがつくれたし、取りたいところで三振も取れた」。敗れはしたが、ピッチャーとしての実力に確信を持った。「本気でプロを目指せる位置にいるんじゃないか」
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そして最後の夏。明治神宮大会の悪夢を思い返し、ポーカーフェースで投げ抜いて全国4強に導いた。ドラフトでは7位指名ながら与えられた背番号30に、球団の高い期待がうかがえる。
雪国が生んだ高校球界のスターは自らの歩みに一つの使命を帯びる。「新潟、特に上越の子たちはプロ野球を間近に見る機会がほとんどなくて、高いレベルを知らない。自分がそういう子どもだったからこそ、新潟の子どもたちに夢を与えられる存在になりたい」
【神奈川新聞】