2018年プロ野球
小さな新人王・東克樹(6)長期離脱で変わった意識 球速向上は反骨心から
ベイスターズ | 神奈川新聞 | 2018年12月6日(木) 18:00
「甲子園経験があるからか、力の抜きどころを分かって器用さはある。でもすごい球があるわけじゃない。(卒業後は)社会人に行けるくらいかなぁという将来性で見ていました」
2015年春、立命大野球部監督に就任した後藤昇(58)は、関西学生リーグ戦でようやくマウンドに上がるようになった小柄な左腕に、大きな期待をかけていたわけではなかった。
当時2年生の東は3番手投手扱い。愛工大名電高の1学年上に、「高校ビッグ3」と騒がれた浜田達郎(中日)がいたように、大学にも絶対的なエースがいた。その秋に巨人からドラフト1位指名される4年の桜井俊貴と、西川大地(日本新薬)だ。ただ、この状況は東にとってチャンスでもあった。
「二枚看板があまりに偉大で、3年生に東以上の投手がいなかった」と後藤が振り返るように、「翌年のチーム編成を考えて経験を積ませるために」と、登板機会には恵まれていた。
上級生相手に痛打されることもあったが、光るものがあったのだろう。その頃、桜井を視察に訪れたベイスターズの八馬幹典スカウト(43)は、小柄ながら粘投する2年生に「完成度はまだやけど、ええ球を放るな」と感じていた。
投げられない苦しみ
ところが、この夏のことだった。公式戦マウンドにも慣れてきたところで、東は左肘を痛め、長期離脱を余儀なくされたのだ。中学、高校とけがなく走り抜けてきた左腕は「相当落ち込んでいた」と愛工大名電高監督の倉野光生(60)が思い起こす。
東不在の中で、チームは大黒柱の桜井の活躍で秋季リーグを春に続き制覇する。後藤就任後、春秋とリーグ連覇の喜びに沸くナインを横目に、次期エースになることが確実視されていた東は一人、投げられない苦しみを味わっていた。
だが、このどん底ともいえる時期に負けず嫌いの反骨心がうずいたことは間違いなかった。ちょうど20歳の節目を迎えた頃の苦い時期を、東本人は「この期間にしっかりトレーニングできたことがプラスになった」と振り返る。
マウンドから離れた半年間を無駄にせず、高校時代のトレーナーにメニューを組んでもらい、瞬発力やスタミナを磨くために徹底的に体をいじめ抜いたという。
冬を越えて、その体が一回り大きくなっていることは、誰の目にも明らかだった。2人の先輩投手が卒業した翌16年春。投球を試みると、球速は5キロほど上がり、140キロ台後半をマークするまでになっていた。
「プロ行けるんじゃないか」
「エースは0点に抑えて当然や。先取点を奪われるのは許さんぞ」。新エースは、監督の厳しい要求以上のことをやってのけた。春季リーグの京大戦でノーヒットノーランを達成。故障を乗り越えた左腕は3季連続のリーグ優勝に貢献し、MVP、最優秀投手、ベストナインにも輝いたのだった。
飛躍を遂げた教え子の姿に関心した倉野は当時、立命大関係者とこんな会話をしたことを覚えているという。
「東、プロ行けるんじゃないですか」
「140キロ台じゃ行かせない。でも、150キロを出したら」
後藤も、大きな挫折を乗り越えた東が、精神的にも一皮むけ、たくましくなったと感じていた。「エースになって練習への意識は特に変わった。(桜井ら)先輩たちのメニューに自分の合うものを足していた。こちらから一度も指示したことはないくらい頑張ってましたね」
ノーヒットノーラン
4年春にはついに150キロに到達。後藤が目を見張ったのはスピードだけではなかった。「右打者の膝元にも投げきれるようになって、ストライクゾーンの幅を目いっぱい使えるようになった」。持ち前の制球力を駆使し「本格派投手」となった東は、リーグ戦で史上初の2度目のノーヒットノーランを成し遂げ、初の大学日本代表メンバーにも選ばれた。
沸き立つ周囲の反応とともに、「現実路線」の人生を歩んできた自身の心にも変化が芽生えていた。
すでに社会人強豪チーム入りが内定し、両親にも「俺は絶対社会人」と言い続けていた。
しかし同時に、長く封印してきた「プロ」の2文字を強烈に意識するようになっていた。春季リーグ戦を終えた17年5月ごろのことだった。
=敬称略
伊藤光の言葉
「本塁打予想してなかった。ごめん」
「内外角にきっちり決まったので組み立てしやすかった。マウンド上で『本塁打は予想してなかった。ごめん』と声を掛けました」
(9月19日、東が七回2死から初安打となる本塁打を許すも、巨人戦5連勝。女房役を務めて)