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レジェンド語る
土井淳氏(上)「歓喜は苦節の始まり」

ベイスターズ | 神奈川新聞 | 2019年7月23日(火) 22:03

 名将・三原脩に導かれ、大洋ホエールズが初の日本一に輝いた1960年、コーチ兼任選手としてチームをけん引したのが土井淳氏(86)だ。球団初の快挙から半世紀以上が経過し、当時を知る優勝メンバーは少なくなったが、その脳裏には栄光の記憶がはっきりと刻まれている。「輝かしい歴史のスタート」と思われた歓喜はしかし、苦節の始まりでもあった。


セ・リーグを初制覇し、日本シリーズを前に川崎で行われたパレード。土井(右端)は高校時代からバッテリーを組む秋山と市民の祝福を浴びた=1960年10月6日
セ・リーグを初制覇し、日本シリーズを前に川崎で行われたパレード。土井(右端)は高校時代からバッテリーを組む秋山と市民の祝福を浴びた=1960年10月6日

 ホエールズに入団したのは球団創設7年目の1956年。岡山東高時代からバッテリーを組んだ秋山登、沖山光利ら「明大五人衆」の一人として、リーグ加盟以来Bクラスに低迷していたチームを改革する存在として期待された。

 土井 当時はプロよりも社会人野球が隆盛で、東京六大学からプロに進む人は少なかった。明大は戦後の黄金期で、秋山とは「せっかくここまで一緒にやってきたんだから、二人の力がどこまで通用するか試してみよう」という話になって、最終的にホエールズに入った。

 ただ、入団した新興球団は万年下位に沈んでいた。明大時代に監督・島岡吉郎の厳しい指導を受けてきた土井らにとっては「ぬるま湯みたいな感じだった」という。

 土井 大学時代はリーグ戦だったけれど、短期決戦。島岡さんには「死ぬ気でやれ」と言われ、負ければ今では考えられないような制裁も受けた。ただ、プロは年間130試合あるからそんなに慌てなくてもいい。負けても(周りは)そんなに悔しがらないし、「一喜一憂せずにあしたも頑張ろうね」となる。

 そうなると緊張感が欠けて、勝つ意欲もだんだん薄れてくる。ああいう雰囲気って怖いよね。(当時の)中部謙吉オーナーもアットホームな感じでチーム全体が甘やかされて悲壮感がなかった。

 チームに転機が訪れたのは、入団5年目の60年だった。西鉄を3年連続日本一に導いた三原脩を監督として招聘(しょうへい)し、59年まで6年連続最下位に終わっていたチームに大きな変化が生まれた。

 三原は巨人、西鉄の監督時代に練り上げた野球ノート「三原メモ」を使い、キャンプから緻密な戦術を落とし込んだ。そして自らの右腕として、当時26歳だった土井に「コーチ兼任捕手」という役割を与えたのだ。

 土井 三原さんが来て一番最初に言ったのは「役者は地方巡業すると芸が荒れると言われるけれど、君たちはそれと同じだ」と。緊張感を持っていないから、技術も伸びないし、勝つ意欲も集中力もないというわけです。

 プレーイングマネジャーというのは当時もあったけれど、プレーイングコーチっていうのは初めてじゃないかな。三原さんらしい発想だよね。キャッチャーの全体的な目でチームをまとめてくれと言われたんだよね。

 キャンプ中にも三原さんからいろいろ相談を受けて、「この選手は打撃がいいけれど守備が下手」「この投手は精神的に強いけれどスタミナがない」とかいろいろとアドバイスをする。そういう細かいところを三原さんは自分の目で全部確かめていた。

 万年最下位のチームを立て直し、就任初年度で日本一へ導いた手腕は「三原マジック」とたたえられたが、それは詰まるところ適材適所の采配だった。

 土井 今では当たり前だけれど、先発、中継ぎ、抑えの分業制とか、代打専門、守備固めにピンチランナーと、選手それぞれの特徴を試合の中でうまくつなぎ合わせるような采配だった。権藤(正利)は新人王を取ったけれど、スタミナがなくて(55~57年にかけて)28連敗していた。でも技術はあったから短いイニングで特徴を出させようと抑えに回した。

 打撃が良くて守備がお粗末だったショートの麻生(実男)を代打専門にして、シーズン中のトレードで近鉄から守備のうまい鈴木(武)を連れてきた。ベンチ入り25人を全員使ったこともあった。選手も次第に自分の出番がわかるようになるから準備がしやすくなる。

 とにかく1点差でもいいから勝ちゲームを確実にものにするというやり方だった。(年間の)6、7割は1点差で勝ったと思うけれど、それが三原さんの緻密さ。それが浸透して日本シリーズでも全部1点差で勝てた。

 時代は高度経済成長期。セ・リーグのペナントレースを初制覇したホエールズは、日本シリーズを前に発展著しい京浜工業地帯を抱える川崎の街をパレードし、ファンも大いに沸いた。当時の本紙は、「市が始まって以来の人出」と伝えている。ただ翌61年に、チームは再び最下位と低迷。以降38年間にわたって栄冠から見放されることになる。

常にファイト育てて


初優勝時の思い出を語る土井淳氏
初優勝時の思い出を語る土井淳氏

 初優勝メンバーの土井さんが色紙にしたためたのは「培根」の二文字。「土台を培う」という意味で、1956年のプロ入り後から座右の銘にしてきた。

 「根がしっかりと張っていれば、どんな地震がきてもびくともしない。困ったら基本に戻れ、ということです」。プロ通算13年の打率は2割1分5厘と派手さはなかったが、確かな状況判断力と堅実なリードでチームを下支えしてきた「グラウンドの指揮官」らしい言葉だ。

 もちろん、21年ぶりの優勝を狙う後輩たちへのエールも込めてある。「根性とは要するにファイト。これを常に育てましょうということです」と元気よく笑った。


どい・きよし 岡山東高、明大を経て、秋山登ら「明大五人衆」の一人として1956年に入団。60年には三原脩監督のもと、コーチ兼任選手としてチームをまとめ、球団史上初のリーグ優勝と日本一に貢献した。68年の引退後は大洋ホエールズでコーチを務め、80年、81年には監督として横浜大洋で指揮を執った。岡山県出身。86歳。

 
 

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