各界を彩る神奈川県ゆかりの人物が、自ら半生を振り返る連載「わが人生」。成功に至る道程とそこで培われた人生観とともに、懐かしい生活風景や人生を翻弄した激動の世相も映し出しています。約半世紀にわたり神奈川新聞読者の皆さまに愛され、今なお色あせない「わが人生」企画。バックナンバーの中から厳選し、カナロコで復刻掲載します。第六弾は、物理学者・横浜薬科大学学長の江崎玲於奈さん。全63回。
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2015年12月4日掲載
悪いことはすべて忘れることにしていても、私の満年齢と昭和の年号が一致するので、昭和が続いていた限り、年号はいつも私の年齢を思い起こさせた。
1931(昭和6)年4月、6歳の私は第一錦林尋常小学校に入学した。1869年開校の名門校だったが、1学期通っただけで9月の2学期からは、新設された第四錦林尋常小学校に移された。たぶん、そのころ京都のこの地区における児童人口が急増したのであろう。ともかく、これらの学校は京都の吉田地区にあり、京都大学や旧制第三高等学校(現在京都大学の一部)とは目と鼻の先である。それだけ小さいころから大学との縁は深く、小学校の級友には大学教授の息子たちも数多くいた。
小学校に入り、勉強は楽しく、先生にもかわいがられた。しかし、そこで私が直面した問題は吃音(きつおん)であった。思うようにコミュニケーションができない。これはちょっとした苦痛だった。これについては母が自責の念にかられた、ちょっとした物語がある。27年8月、私は2歳5カ月くらいで全く覚えていないが、淡路島の南に位置する沼島という小さな島に滞在して夏の海辺を楽しんでいた。ところが滞在した家に5歳くらいの悪さをする女の子がおり、たまたま縁側にいた私を後ろから突き落としたというのである。
母が急いで私を抱き上げたが声が出ず、しばらくしてやっと口をきいたまではよいが、発音がひどく不自由になり、それがすぐには治らなかったという。母の記憶では、この症状が小学校生活を始めてから再発したというのである。腹式呼吸とか、さまざまな治療を試みたが効果は乏しかった。しかし、大きくなるにつれて、吃音は次第に姿を消してくれた。下手な英語では不思議にほとんど不自由はなかった。
私は早くから、自分は自然を相手とするサイエンスの研究に適した人間ではないかと思っていたが、それは人とあまり話さなくてもよいという条件にかなっていたからである。従って私の場合、吃音はノーベル物理学賞の受賞には、ひょっとするとプラスに働いたのかもしれない。
私の小さいころ、夏には大阪を離れ、地方の海水浴場に出かけるのが恒例になっていたようである。多忙な父も週末には合流した。福井県の若狭高浜に滞在した4歳の思い出は鮮明である。海が透き通るように美しく、まるで水族館にいるようにシマダイの姿がはっきり見えた。夢中になっていると、父から「チンチンより上に水が来るところへは行ってはいけない」と諭された。
小さな乗合自動車で父を迎えに駅まで行くと、親切な運転手が見晴らしのよい、運転席の横に座らせてくれたことまでよく覚えている。そのときの父がカタカナで書いてくれた手紙は今も大切にとってある。
「レオチャン テガミハヨクカケマシタ ヨイオミヤゲヲモツテユキマス…トウサン」
わが人生・江崎玲於奈(4) 父の手紙 今も大切に
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兄に抱かれた6歳の筆者。写真に書かれた母の言葉は「健やかに、のびゆく吾子とともにあるこの仕合せを如何に謝すべき」(原文のまま) [写真番号:1092321]