各界を彩る神奈川県ゆかりの人物が、自ら半生を振り返る連載「わが人生」。成功に至る道程とそこで培われた人生観とともに、懐かしい生活風景や人生を翻弄した激動の世相も映し出しています。約半世紀にわたり神奈川新聞読者の皆さまに愛され、今なお色あせない「わが人生」企画。バックナンバーの中から厳選し、カナロコで復刻掲載します。第三弾は、横浜高校野球部元監督・渡辺元智さん。全70回。
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2006年1月6日掲載
生い立ちをもう少し詳しく記すと、私の父は兵役を解除され満州から引き揚げて、最初は祖父の家にいたらしい。しかし、祖父が後添えを迎えて新しい家族が加わったため、母方の祖父の家を頼ってきたというようなことらしかった。両親は私の知らない複雑な事情を抱えていたようだ。
母方の祖父の家は御殿場線の松田駅から歩いて十分ぐらいの庶子という場所にあった。私たちは御殿場線を「ヤマ線」と呼んでいた。祖父はそのヤマ線の松田駅の駅長だった。だから、母は駅長の娘だったわけで、私は国鉄の官舎で産声を上げたことになる。官舎の暮らしはそれほど貧しいわけではなかったが、金持ちといえるほどでもなかった。
私が小学五年生になったとき、母親が家にいるようになって、ようやく平塚に引き取って貰い、花水小学校に転校し、やがて浜岳中学校に進むのだが、転校したとき、担任の石川保男先生がキャッチボールの相手になってくれた。昼休み、放課後はもちろん、雨の日でも廊下で相手を務めてくれた。私が野球に一段とのめり込むうえで、石川保男先生の影響が大きかった。授業だけでなく、それ以外の時間も付きっきりで相手になってくれる先生がいる。愛情に飢えた少年にとって、そこに野球以上の意味があった。どちらがどうということではなくて、両方相まってのことだったと思う。平塚時代、それ以外はほとんど記憶に残らなかった。もちろん、野球部に在籍したが、野球のことも記憶にない。
のちに横浜高校の野球部でさまざまな問題児を相手にするのだが、記憶にもとどめたくないという中学時代を持ったことが、彼らを理解するうえでどれだけ助けになったか知れない。
こうした少年期の体験が、のちの部員指導の下地になった。理屈でなく生身で経験したことだから、猛者たちの気持ちがよくわかったし、彼らを野球で真っすぐ前に向かわせられると確信できた。彼らも私のそんなにおいを敏感に察知して共感し、従う気持ちになったのだろう。
振り返ってみれば、少年時代のいじけた気持ちが、その後の私の高校野球人生に大きく役立ったわけで、感謝したいような気持ちに変わった。しかし、それも今だから言えることで、当時の私にそんなゆとりは微塵(みじん)もなかった。
もちろん、高校野球の指導者になってすぐ、彼らの気持ちを理解するゆとりを持ったわけではない。それまでは野球を恩人と思い込んで一途に横浜高校の野球部を強くすることしか念頭になかった。彼らを鍛えて鍛えて鍛え抜くしかないという考えに凝り固まっていた。反省ばかりだが、そこにとどまっていたら、私の今日はなかったと思う。
まだ、山を二つ、三つ越えなければならないのだが、簡単に言ってしまうと甲子園で優勝するうえでの野球の恩人、人生は野球だけじゃないよと教えてくれた恩人との出会い、そこに至るまでの紆余(うよ)曲折の結果であった。