各界を彩る神奈川県ゆかりの人物が、自ら半生を振り返る連載「わが人生」。成功に至る道程とそこで培われた人生観とともに、懐かしい生活風景や人生を翻弄した激動の世相も映し出しています。約半世紀にわたり神奈川新聞読者の皆さまに愛され、今なお色あせない「わが人生」企画。バックナンバーの中から厳選し、カナロコで復刻掲載します。第三弾は、横浜高校野球部元監督・渡辺元智さん。全70回。
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2006年1月5日掲載
田舎の暮らしで楽しみといえば野球と相撲しかなかった。当時のラジオは耳をスピーカーに寄せないとよく聞き取れなかったが、吉葉山の活躍に胸を躍らせたものである。しかし、私は個人の勝ち負けを競う相撲より、仲間と腕を競い、ルールに従ってみんなで勝ちにいく野球を迷わず選んだ。それは快いものだった。私は時間を忘れ、嫌なことも忘れ、無我夢中で野球に立ち向かった。
私たちのフィールドは稲を刈り取ったあとの田んぼだった。切り株が残ってやりづらかったが、それでも地面が平らにならされていて、一番やりやすいフィールドだった。田植えから収穫までは使えないので、草っぱらをフィールドにするのだが、地面が凸凹でこちらのほうがやりづらかった。
私たちの少年時代の野球はボールを探すことから始まり、丸いものなら何でも使った。石ころに布を巻いて使ったこともある。グローブは布製だった。野球をするだけの人数集めも苦労の種だった。監督もいない、審判もいない、野球ともいえない野球だったから、判定でもめることがあった。全員が監督になってけんか腰で抗議し、敵味方双方が審判に変じ口角泡を飛ばして議論し、どちらも納得できないで解散してしまうこともあった。ルールの理解、守ることの大切さを、私たちは野球を通じて身に染み込ませた。
野球をやる条件はめぐまれなかったが、それが逆に技術を上達させた。ボールがイレギュラーして捕球しそこねるたびに、こうきたらこう、だから、次はああしようと考えた。自分の考えがツボにはまったときの得意な気分はたとえようがなかった。
親と一緒に過ごしたいなあ…。
幼心に抱く淡い夢がかなわないために、私はやがて野球選手になりたいと思うようになった。
時あたかも赤バットの川上哲治、青バットの大下弘、じゃじゃ馬の青田らの全盛期だった。自分の将来を名選手の勇姿に重ねて泥で真っ黒に汚れた白球を追った。その夢がなかったら、私は間違いなく横道にそれていたと思う。
夢というものが少年時代にはいかに大切か、経験から私は覚えた。
野球は一つのボールをピッチャーが投げ、バッターが打ち返し、野手が追う。外見には当事者は二人か三人に限られ、他のプレーヤーは傍観しているように見られがちだが、決して部外者ではいられない。たった一つのボールに大勢が集中することで、仲間意識が育ち、トラブルのたびにチームの結束が強まった。
上手下手を問題にする以前にルールに通じていないと参加できないし、守れなければ排除されてしまう。野球は世の中の仕組みを凝縮したものだと私は理解している。だから、肩を壊し、メスを入れ、手術に失敗して選手生命を断たれても、なおもまだ野球に生きようと考えられたのだと思う。
私が野球を人生の恩人とする理由がそこにある。