各界を彩る神奈川県ゆかりの人物が、自ら半生を振り返る連載「わが人生」。成功に至る道程とそこで培われた人生観とともに、懐かしい生活風景や人生を翻弄した激動の世相も映し出しています。約半世紀にわたり神奈川新聞読者の皆さまに愛され、今なお色あせない「わが人生」企画。バックナンバーの中から厳選し、カナロコで復刻掲載します。第一弾は、藤木グループ会長の藤木幸夫さん。全131回。
現代の観点では不適切な表現や、現在では状況が異なる事象もありますが、紙面掲載当時の表現、表記をそのまま掲載しています。著者の所属先など関係者・関係組織へのお問い合わせはお控えください。
2004年3月17日掲載
忘れもしない年の瀬も押し迫った十二月の十九日―。夕暮れの、ほんとうに寒々とした一日の出来事だった。母ハルが亡くなったとき、幸太郎は言葉にならない声を挙げて人前構わず涙を流し始めた。ほえるような嘆きが言葉として聞こえるようになるまで、しばらく時間がかかった。
「おハル、これからよくなる、これからよくなんのに…。早いよ、おまえは。ばかやろ、早すぎるよ、死んじゃあ」
男はどんなときでも人前で涙を見せるものではないと胸にいい聞かせ、歯を食いしばるようにして涙をこらえていた私は、一瞬、あっけに取られ、わけがわからなくなって、気づいたときには自分も大声を挙げていた。あとはもう、どうしようもなく涙があふれ、その場に突っ伏してしまった。
強い父、たくましい父、それでいてやさしく、笑い顔しかなかった父、冗談がうまくて人を笑わせてばかりいた父、怒ったときにはただ黙ってしまうだけの父―。その人が泣いた。
幸太郎が人前で初めて見せた涙……。
母の死の悲しみに父の涙を初めて見た驚きが重なって、私はいつまでも涙が乾かなかった。
図らずも、今日、わが人生を振り返る段になって、真っ先に脳裏に浮かんだのが、あの日の情景であった。
あれでよかったのだと思う。いや、ああでなければならなかったのだ。
父の涙で、最愛の母を失ってまだ若かった私の心にぽっかりあいた空洞が、間髪入れずおやじと自分の熱い涙で満たされ、癒やされ、奮起をうながされた。
あのとき、涙を堪えて泰然としていられるような父であったら、今の私は藤木幸太郎を成功者としてしか見なかったかもしれない。
多くの人が認めてくださるように確かに藤木幸太郎は、横浜の港湾荷役のフロンティアの一人、藤木企業という会社の創業者である。その功績を認めない人はない。
だが、その前に一個の人間として、男とはかくあるべしの姿を私に見せてくれた。
私のかけがえのない母のために、みっともないほどあられもなく悲しんで、とどまることを知らぬげに、実に惜しげもなく涙を流してくれた。
思い出すだけでも、美しい涙であった。
私はその人に育てられたのである。
藤木幸太郎は、その後もまた恩人や親友を失うたびに、「できればおれが代わってやりたかった」
のどの奥からふり絞るようにして声を放ち、沈痛に号泣した。
そうした父を見ても、不思議と違和感を覚えなかった。それが人間・藤木幸太郎なのだ、と自然に受けとめられるようになった。
藤木幸太郎のようになろう。そして、この父のように生きよう。
母の死と父の涙―。失うものがあった一方で、得るものがあり、私の前半生は数倍して貴重なものとなって、かくして後半生につながってきたのである。