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わが人生・藤木幸夫(1) 幸夫の血でなければ… 母のがん、父の闘い

わが人生 | 神奈川新聞 | 2021年4月1日(木) 00:00

 各界を彩る神奈川県ゆかりの人物が、自ら半生を振り返る連載「わが人生」。成功に至る道程とそこで培われた人生観とともに、懐かしい生活風景や人生を翻弄した激動の世相も映し出しています。約半世紀にわたり神奈川新聞読者の皆さまに愛され、今なお色あせない「わが人生」企画。バックナンバーの中から厳選し、カナロコで復刻掲載します。第一弾は、藤木グループ会長の藤木幸夫さん。全130回。

 現代の観点では不適切な表現や、現在では状況が異なる事象もありますが、紙面掲載当時の表現、表記をそのまま掲載しています。著者の所属先など関係者・関係組織へのお問い合わせはお控えください。(※)で適宜編注を入れました。

2004年3月16日掲載

ふじき・ゆきお 1930年横浜生まれ。父・幸太郎氏が創設した藤木企業を継ぎ、関連グループ企業15社、従業員数約1500人を抱える藤木グループ会長。横浜港運協会会長、FM横浜社長など数々の要職を歴任。スポーツの振興にも力を注ぎ、98年横浜文化賞も受賞した。

 わが人生を顧みるに当たって、心に残る一番の出来事がある。

 終戦後しばらく―正確には昭和二十四年十二月十九日、私は母ハルを失った。

 藤木ハルが胃がんの宣告を受けたのは、前の年の秋のことであった。ハルは若いころから胃を病んできたが、それが、がんという最悪のかたちで現れたのである。

 まだ疑いであるうちはよかったが、新橋田村町の川島胃腸病院に入院して胃がんの宣告を受けたとき、私は目の前が真っ暗になった。それは死の宣告に等しかった。

 私は早稲田大学政治経済学部に籍を置いたばかりであった。

 この世で最も愛する人はだれかと問われたら、私は迷わず母と答えたろう。

 昭和五年八月十八日、横浜市西区天神町の家で生まれてから、まだ十八年、むしろ、これからが私の人生だった。あまりに早い死の影である。これから先も私とともに生き、わが人生を見届けてほしかった。

 妻を片肺と頼む父・幸太郎の思いも同じだったはずだ。

 しかし、ハルは気丈に耐えて手術を受けた。私たちと一緒にまだまだ生きたいという思いが勝ったのだろう。手術は成功し、ハルは湯河原で療養することになった。

 幸太郎は藤木組を独立させたばかりで多忙を極めたときであったが、毎日のようにハルを見舞った。父が母への愛を口に出して語ることはなかったものの、その姿こそまさしく愛情の発露であった。私にとってそれまでの父は仕事に生きる男の手本でしかなかったが、連日のように横浜から湯河原へ足を運ぶ父のひたむきな姿に、心からの尊敬を覚えた。

 運命の年の十二月、ハルの容体が悪化した。私は大学どころでなくなって母の看護に専念した。そして、母ハルには毎日四〇〇CCの輸血が必要になった。

 「これ、幸夫の血でしょうね。幸夫のでなければ嫌ですよ」

 輸血を受けるたびに、ハルはいった。

 動物的ともいえる母親の愛情の深さ、そして強さを感じて、私はこの母を救うためなら自分の血をすべてささげたいと思った。しかし、医師が許さなかった。無論、私の血も使われたが、すべてというわけにはいかなかった。

 ハルの食は細り、やがて病院の食事を受けつけなくなった。

 幸太郎は母の若いころからの親友で料理屋「ひとみ」の女将・高木シゲに頼んで食事を手配した。ハルは親友がつくるカキフライとスープが何よりの好物で、弱った手で口に運び、しみじみとした口ぶりでいった。

 「ああ、おいしい」

 私の目には夫と親友の愛情を喜んでいるように見えた。

 死の四日前の十五日の夕刻、ハルは何カ月ぶりかで湯につかって「お風呂は、いい気持ちね」とほほえんだ。私もまた母が入浴できるほどに回復してくれたことがうれしくてならず、ひさしぶりに安堵(あんど)を覚えた。その矢先の死であった。

 母ハルが、懸命に胃がんと闘っていたとき、父の幸太郎も不惜身命の日を送っていた。幸太郎は藤木企業の創業者である。学生の身の私には具体的な内容はわからなかったものの、母を見舞うかたわら朝早くから港の現場に出かけて行く姿を眺めて、その苦労と苦心が並大抵でないと感じた。

 それに比べたら学生生活は天国だ。

 だからこそ、私は悩んだ。母が病に倒れ、父親が大変なときに、このまま安閑と学生生活を続けていてよいのか。私は自分の心に問わずにはいられなくなった。

 昭和二十二年六月に高島桟橋(※現在の横浜市西区高島、みなとみらいの一部)の接収が解除されたのをはずみとして、山ノ内桟橋、大桟橋、港内海面の接収解除へと、GHQへの働きかけはヤマ場を迎えていた。横浜の港湾施設が戦後の夜明けを迎えたときだけに、六十歳に手が届こうかという年齢で、その先頭に立つ幸太郎の体力は限界に近かったはずである。

 それなのに幸太郎は危険な現場にも毎日のように朝早くから出た。

 私は大学二年生になっていた。

 すでに基礎は学んだ。あとは実学だ。父親という生きた手本があるのだから、中退でもよいのではないか。

 私は退学を決意して、幸太郎にいった。

 「おれ、大学やめて、おやじの仕事を手伝うよ」

 しかし、幸太郎は「考え直せ」といって受けつけなかった。

 考え直す余地はなかった。一度は引き下がったが、それから二、三日の間をおいて、私は藤木組の事務所に出た。

 「ついてこい」

 幸太郎は近くのラーメン屋に私を連れ出し、カウンターに両肘を突き、あごに手を当てて、懇々と説きだした。

 「おまえなあ、どうしても大学をやめるというなら、それも仕方ない。しかしだな、できれば出たほうが今後のためだぞ。別に大学出がえらくて、無学の人間が役に立たんという考えでいうんじゃない。おれの場合を例に取ればだな。会合があったりしてお開きになったとき、他の連中は早稲田集まれ、慶応集まれという具合に、大学出の仲間同士肩を組んでまた飲みに行くんだ。そんとき、おとうちゃんは行くところがねえんだよ。そりゃあな、寂しいもんだぜ。仕事の面にしてもだな。早稲田や慶応にはちゃんとしたOB組織があって、何かというと助け合う。おとうちゃんにはそういう仲間もない。何をするにも孤軍奮闘になっちまうんだよ。だから、大学は出といたほうがいいというんだ。出たら、現場の人間はもちろんだが、そういう仲間も大事にしろ。あと一、二年の辛抱だ。気持ちはわかるが、大学をやれ」

 腕一本でなりふり構わず生き抜いてきた父親の思わぬ孤影を見た思いであった。

 私は熱いラーメンのつゆをすすりながら、涙が出そうになった。


神奈川新聞 2004年3月16日付16面

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