1. ホーム
  2. 連載・企画
  3. 連載
  4. 神奈川新聞と戦争
  5. 神奈川新聞と戦争(27)1941年 開戦に寄せた「檄文」

神奈川新聞と戦争(27)1941年 開戦に寄せた「檄文」

神奈川新聞と戦争 | 神奈川新聞 | 2017年2月15日(水) 10:34

米英との開戦を伝え、戦意を鼓舞した1941年12月9日付の神奈川県新聞
米英との開戦を伝え、戦意を鼓舞した1941年12月9日付の神奈川県新聞

 この国を破滅へと導いた真珠湾攻撃から8日で75年となる。既に泥沼化していた日中戦争に加え、東南アジアや太平洋の島々までもが戦場となった。

 真珠湾の翌日、1941年12月9日の神奈川県新聞は「必勝不敗 米英打倒へ猛進撃」と勇ましい見出しを掲げ、宣戦の詔書の全文を掲載した。神奈川県新聞とは、全国の地方紙が「一県一紙」体制へと向かう過程で、本紙の前身である横浜貿易新報が前年12月に変更した題名だった。

 総動員体制下、新聞社は言論統制の圧力と、経済の窮迫を理由にした用紙統制の両面から統合を余儀なくされた。だが他面で、地域の言論の主導権を巡って新聞各社が積極的に新聞統合を進めた側面もある。これは別の機会に述べるが、1890年の創刊から掲げ続けた「横貿」の看板は、あっさり放棄された。

 12月9日の紙面に話を戻す。「ハワイ、シンガポール奇襲作戦に成功」「馬来(マレー)半島奇襲上陸」「香港飛行場空襲 十二機を炎上」「陸海荒鷲比島で早くも百機撃墜」など戦果を告げる見出しの数々。中央部には「これ何の光栄ぞ! 只(ただ)、決死あるのみ」と題した野田武夫社長の時論が囲み記事の形であしらわれた。

 「安きを求めず、強大を怖れず然(しか)も只管(ひたすら)世界平和の裡(うち)、万邦をして各々(おのおの)その所を得せしめんとの我が隠忍と自重とはつひに破れた」「我等(われら)に怖るべき何ものかあらん。然れども対英、米戦争の本質より戦争長期化の必然をおもへば我等は今日只いま、五年、十年否百年の堅忍持久を誓はねばならぬ」「局部的戦闘の勝利から総力戦の勝利へ……今や一億国民は悉(ことごと)く戦線へ立つたのだ」

 これが、地域の言論を担うべき地方紙の社長の言葉だった。既に県警には言論を取り締まる特高課が発足し、自由な論説は望めなかった。とはいえ「我等はたゞ決死あるのみ、爆撃下にも従容笑つて持ち場を死守するであらう(略)悠久二千六百年一身以てこの大聖戦に参加し得る我等の光栄何ものにか如(し)かん。二百万県民!この光栄に生きこの光栄に死せんのみ」と結ばれたこの文章は、もはや「時論」などでなく、市民を死へと駆り立てる戦意高揚の檄文(げきぶん)といえた。

 開戦を機に、一県一紙の流れは加速。翌42年2月、神奈川県新聞社と神奈川日日新聞社、相模合同新聞社の3社が合併し、現在の神奈川新聞社が発足した。

特攻隊(太平洋戦争)に関するその他のニュース

神奈川新聞と戦争に関するその他のニュース

PR
PR
PR

[[ item.field_textarea_subtitle ]][[item.title]]

連載に関するその他のニュース

アクセスランキング