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神奈川新聞と戦争(5)1942年変わり果てた紙面

神奈川新聞と戦争 | 神奈川新聞 | 2016年8月24日(水) 09:59

開戦1周年を祝う神奈川新聞。中央に開戦の詔書が配され、その下には戦果が大書された(1942年12月8日付第1部)
開戦1周年を祝う神奈川新聞。中央に開戦の詔書が配され、その下には戦果が大書された(1942年12月8日付第1部)

 15年の時を経て、神奈川新聞は変わり果てた。

 前回まで4回にわたり、1927(昭和2)年の本紙前身、横浜貿易新報(横貿)の論説を振り返った。確かに記述は軍国主義的、封建的な価値観に基づき、日本の満州(中国東北部)権益に対して無批判な面もあった。とはいえ、外交面で拡張をあおる強硬論からは一線を画していた。

 今回取り上げるのは太平洋戦争の開戦1年後、42年12月の本紙。横貿をはじめ相模合同新聞、神奈川日日新聞など県内各紙は、政府の「一県一紙」政策に従って合併し、現在の神奈川新聞に収束していた。この間の変遷は改めて詳しく見ることにし、まずはその変貌ぶりに焦点を当てたい。

 12月8日、本紙は「大東亜戦争一周年記念号」と銘打った各4ページ、2部の特別紙面を発行した。第1部の1面には「戦捷(せんしょう)」の文字を左右に配し、中央には前年のこの日、天皇が発した開戦の詔書を全文掲載した。「東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄与スル…」

 記事は次の通りだった。「畏(かしこ)くも対米英撃滅の大詔を奉戴(ほうたい)し、わが一億国民一丸となつて、興亜の聖戦、世界新秩序の建設と云(い)ふ、曠古(こうこ)[空前]の大使命達成に乗り出してよりここに一年」「狡智(こうち)[悪知恵]の限りをつくして結成した所謂(いわゆる)A、B、C、D包囲陣により、経済封鎖に、軍事攻勢にと、我国に脅威を与へ以(も)つて東亜を彼等の奴隷たらしめんとした貪らん[貪婪(どんらん)=欲深い]飽くなき米英の野望…」。もはや解説するまでもない。

 中ほどには「偉なるかな皇軍の武威」と題し、「捕虜実に四十二万人」を筆頭に1年間の戦果を記した。「南方及びアリユーシヤン方面」の「撃沈並に大破せる艦船」は「百四隻」、「支那[中国]方面」の「遺棄死体」は「約二十八万」。もちろん「大本営発表」で、大幅に水増しされていたと戦後に判明する。半年前の6月、北太平洋上でのミッドウェー海戦で、既に日本の主力空母機動艦隊は壊滅。が、国民には伝えられていなかった。

 同じく1面左側には、当時の近藤壌太郎知事(官選の内務官僚)の談話が「戦勝に酔ふ勿(なか)れ」の見出しとともに紹介された。「我々国民として粉骨砕身して御奉公すべきは今を措(お)いてない」「銃後生活も亦(また)[戦]争」「一切の泣き言や不平は敵を利する以外何ものでもない」。こうした発言を本紙は流し続けた。

 もちろん、治安維持法をはじめとする言論弾圧は厳しさを極め、新聞用紙の配給は国が握るという、制度と経済両面の言論統制下にあった。けれども、これらの記事を執筆し、編集したのは、ほかならぬ神奈川新聞の記者たちだった。

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