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神奈川新聞と戦争(14)1928年 治安法と張作霖爆殺

神奈川新聞と戦争 | 神奈川新聞 | 2016年10月26日(水) 09:44

張作霖の死去を伝えた1928年6月11日の横浜貿易新報。「野望に終始した生涯」とある
張作霖の死去を伝えた1928年6月11日の横浜貿易新報。「野望に終始した生涯」とある

 治安維持法が改正され最高刑が死刑となった1928年。本紙の前身、横浜貿易新報(横貿)は、議会での審議を省き、明治憲法下の「緊急事態条項」である「緊急勅令」で改正を押し通そうとした田中義一内閣を徹底して批判した。

 しかし、同時期にあった政府による共産主義者の一斉弾圧(3月15日、発表は4月10日)は、むしろ後押しした。紙面には「共産党連座学生 無期停学の処分 きのふ閣議で決定」「軍隊内の赤化防止」(4月14日)、「三大学の左傾分子 今明日中に処分」「帝大新人会解散」(同18日、現東大の社会科学研究団体を解散)、「横須賀重砲隊に共産党員一名 一年志願兵を軍法会議へ」(同20日)、「旧労農派二代議士除名決議案」(同23日)といった見出しが続いた。

 この時期はまた、日本の対中国政策の転機もあった。張作霖爆殺事件だ。張は中国東北部の軍閥で蒋介石の国民党と勢力を争う一方、大陸の権益を巡り日本や欧米とも交渉した。

 事件が起きたのは6月4日。北京を追われ根拠地の奉天(現瀋陽)に戻った張が、列車ごと爆破、殺害された。関東軍参謀の河本大作大佐による謀略だったことが戦後明らかにされるが、当時の報道は違った。

 6月7日の横貿は「重態ではないと…医師が否認 張作霖氏の容態」の見出しで担当医の談話を載せた。「大した事ではない現に昨日の昼は廊下に立つて馬夫長に対し『北京から帰つてナゼ馬の手入をせぬか』と叱り又炊夫長を呼んで自分の好きな料理を命ぜられた程である」。リアルな描写だが、恐らく事実でない。通信社に頼った外信は、多分に加工が施されていた。

 張を論評した同9日の社説は「馬賊に身を起して、東三省[中国東北部]の覇主となり、次いで、北京に入りて、大元帥にまで身を進めた」経歴を「分に過ぎたる栄達」とし、彼には「支那[中国]を救ふの力量を有して居ない」。なぜならば「教養が無い。識見もない」からだ-と酷評した。辛うじて「今次の事件に至つては、真に同情に堪へざるものがある」と付け加えるばかりだった。

 張の死亡記事が掲載されたのは事件から1週間後の同11日。「座乗列車は南方派便衣隊[国民党・蒋介石軍のゲリラ]のため爆破され」と、関東軍による偽装工作をうのみにした。

 同9日の社説は「単に南方便衣隊の仕業とのみ認定するは早計であらう。支那の事件の通例として(略)必ず其(そ)の裏に裏あり其の底に底ある」と陰謀説をにおわせたが、あくまで張周辺の犯行とする内紛を推測しただけで「支那人の行為である事は十分認めることが出来る」と、日本側の関与は考えなかった。

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