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神奈川新聞と戦争
(127)1941年 負傷してなお「動員」

神奈川新聞と戦争 | 神奈川新聞 | 2020年2月16日(日) 05:00

 「国を護(まも)つた傷兵護れ!」と、厚生省外局の軍事保護院のキャッチフレーズをなぞるように掲げた寿屋(後のサントリー)の広告と、相模原の臨時東京第3陸軍病院に皇后が菊花を贈ったという記事「皇后陛下 御下賜の菊花に白衣勇士が感激」。1941年11月8日と9日の神奈川県新聞(本紙の前身)に続けざまに掲載されたこれらは、戦争で負傷した将兵に対する国の手厚い援護体制を強調するものだった。

 なぜ、その必要があったのか。九州看護福祉大教授の金蘭九の研究ノート「戦前・戦中期における傷痍(しょうい)軍人援護政策に関する研究-職業保護対策の日韓比較」(同大紀要所収)によると、37年に日中戦争が始まってから傷痍軍人が「激増」し、社会問題化したことが一因という。復員後、障害を理由に就職が忌避される懸念もあった。

 そこで政府は、諸外国の身体障害者の雇用制度を調査し、雇用主に「傷痍軍人の雇用」を「勧奨」。政府自らも積極的に雇用した。翌38年には、厚生省の諮問機関として傷痍軍人保護対策審議会を設置。療養所や職業訓練施設の設置、一般国民に対する「教化」などが必要だとする答申を受け、冒頭の軍事保護院の発足にもつながった。

 金によれば、こうした傷痍軍人対策を、政府は「戦争遂行に不可欠の課題」と位置付けていたという。日常生活が困難な国民を援助すべきだという現実問題にも増して、「国の命令である従軍によって受傷した」ことに「大きな政治的、社会的意義」があったからだ。

 国民の義務として兵役に就きながら、負傷したために仕事にも就けない-。そんな厭戦(えんせん)気分を恐れ、政府は「兵隊さんとその家族のお世話」(寿屋の広告)をすると宣伝し、戦意をつなぎ留めようとした。

 加えて、労働力不足の戦時下では、産業界にとっても「たとえ労働能力の減退があっても、働くことのできる傷痍軍人は有用な存在」(前掲研究ノート)だった。

 障害者対策、労働力不足、そして戦意高揚。戦地で負傷した人たちは「傷兵護れ」の文句と裏腹に、復員後も「再起奉公」(11月9日付記事)、つまり戦争遂行に動員されたのだ。

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