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神奈川新聞と戦争
(125)1941年 負傷兵の称賛の裏に

神奈川新聞と戦争 | 神奈川新聞 | 2020年2月2日(日) 05:00

 「スパイの手」と題して謀略戦への警戒を呼び掛けた広告を立て続けに出した寿屋は、その間に、別の国策宣伝も手掛けた。1941年11月8日の神奈川県新聞(本紙の前身)に掲載された「国を護(まも)つた傷兵護れ!」の広告である。


「国を護つた傷兵護れ!」と題した寿屋の広告 =1941年11月8日付神奈川県新聞
「国を護つた傷兵護れ!」と題した寿屋の広告 =1941年11月8日付神奈川県新聞

 「前線で奮闘してをられる皇軍将兵が銃後の事を気に掛けず、専心御奉公できるように国家は厚生省に軍事保護院を設けて、兵隊さんとその家族のお世話をして居られます」

 軍事保護院は厚生省の外局で、37年に始まった日中戦争の激化に伴い、軍人援護を強化する目的で38年に設置された(当初の名称は傷兵保護院)。「援護」とは戦闘や軍公務で負傷したり亡くなったりした軍人や遺族を対象にした福利厚生のことで、傷兵の療養や生活の援助、職業紹介をはじめ遺族に対する職業訓練や教育なども行われた。

 そのルーツは、日露戦争(04~05年)後に制定された「廃兵院法」にある。機械力に頼る近代戦は、戦勝と引き換えに、従来経験したことのない結果をもたらした。中国大陸などで展開された激しい地上戦で、数万人単位の将兵が手や足を失うなどの重傷を負ったのだ。彼ら負傷兵は同法に基づき各地に設けられた「廃兵院」に収容された。

 広告の文句「国を護つた傷兵護れ!」とは、軍事保護院のキャッチフレーズそのものだった。38年には「傷痍(しょうい)の勇士」と題したレコード(作詞・土岐善麿、作曲・堀内敬三、歌・徳山璉(たまき))まで発売され、その歌詞を添えた同院のPRチラシには「国を-」のフレーズが躍っていた。

 広告は「わたくし達の務め」として「国民全部の熱烈な後楯(うしろだて)」を求めた。一方で冒頭に引用した広告の文句には、前線の将兵を戦闘に専念させることが軍事保護院の目的とされた。つまり、こういうことだ。前線も銃後も、負傷や戦死を心配する必要はない。万一の場合、国家は「兵隊さんとその家族のお世話」をしてくれるのだから-。

 「国を護つた」と負傷兵を称揚し、手厚い支援策を示しながら、その実、そこに「個」に対する配慮はない。全体の「一部」として、国家に命をささげることを強いたのである。

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