日米開戦の1年後、1942年12月8日の本紙に多数掲載された保険会社の広告。そこには人心を安定させ、銃後の国民をも戦争遂行に総動員しようとの国家意思が反映されていた。
保険と戦争の密接な関係は、23年9月1日の関東大震災をルーツとしていた。片山杜秀著「国の死に方」は指摘する。「震災直後に町の噂(うわさ)として広まった新知識は被災民に衝撃を与えた」。新知識とは、火災保険が地震による火災を対象としていない、という約款の免責事項を指す。結果、「民衆は怒り狂った」。
片山は同書で、この怒りを、地震後に起こった朝鮮人虐殺との関連で論じた。「誰かが便乗して火を付けているのだ。そうなら保険もおりる」と考えた被災者もいたのではないか-と。
実際、デマによって多くの朝鮮人が殺害され、無政府状態が生じた。危機感に駆られた政府は同7日に緊急勅令を出し「人心ヲ惑乱スル目的ヲ以テ流言浮説ヲナシタル者」などを取り締まった。勅令とは、法律に代わる天皇の命令を意味する。立法府の議論を経ずに行政機能が立法機能をも兼ねる権力集中は、現在、改憲の入り口として必要性が語られている緊急事態条項の危うさにも通ずる。
実際、この緊急勅令は危険な働きをした。「治安維持令」「流言浮説取締令」とも称される同勅令は、治安維持を名目に、社会主義者や労働運動家を弾圧する根拠となったのだ。そして2年後の25年4月、同勅令は治安維持法に帰結し「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的」とした結社を禁じた。
25年の時点で、新聞は同法に明確に反対していた。本紙の前身の横浜貿易新報(横貿)は、同法案が審議過程にあった同年2月12日、県北の津久井(現相模原市)生まれで「憲政の神様」と呼ばれた衆院議員、尾崎行雄の談話を載せた。
「該法案は新聞社に対しては之(これ)を余り適用せぬ様な口吻(こうふん)であるが政府が若(も)し一度新聞社に悪意を以(もっ)て之を施行するならば社説等で思ひ切つた議論は到底出来ぬ訳である」と、言論の萎縮を懸念。さらに、同法が処罰対象とした「国体変革」の解釈についても「国体等と云(い)ふ字句は範囲が極めて広汎(こうはん)で漠然として其(そ)の解釈の仕様では如何様(いかよう)にでもなる」と法の恣意(しい)的な運用があり得ると指摘した。
言論の萎縮、法の恣意的な解釈-。安全保障関連法や緊急事態条項を巡る議論と、これも重なる。
横貿は社論でも「治安維持法は無用」と断じた。詳細は次回紹介する。