鎌倉にある「ツバキ文具店」。主人公の鳩子が営む代書屋に持ち込まれる手紙の依頼や日々の暮らしを描いた人気シリーズの3作目「椿(つばき)ノ恋文」を、神奈川新聞で連載中だ。1作目の「ツバキ文具店」では「先代(祖母)」が残した家で暮らす鳩子の毎日を写し出したが、続く「キラキラ共和国」では妻を亡くし、1人でまな娘の「QPちゃん」を育てる「ミツローさん」と結婚。現在、3児の母となった鳩子は育児や家事に奮闘しながら、さまざまな依頼者に向き合う。
「作品の中で一つくらいは、自分が年をとるのと同じように時を重ねていく主人公がいてもいい。読者からのお手紙を読むと、ポッポちゃん(鳩子)たちを自分の親戚のように見守ってくれている読者もいて、1作で完結するものとは違う広がり方がうれしいです」とほほ笑む。
デビュー以降、多様なテーマの小説やエッセーを発表。通底するのは、毎日の暮らしと命を慈しむ優しいまなざしだ。大切な人との会話や旬の食材、季節によって変化する風の匂いや街の陰影を丁寧に描き、読む者の心に光をともす。
今作で印象に残っているシーンの一つは、依頼者の「茜さん」と鳩子が江ノ電の鎌倉高校前駅のホームのベンチで海を眺める場面。自らの死が迫っていることを知った茜さんは、まもなく結婚する娘に思いを伝えようと鳩子に代書を頼む。「私自身、あの場所から海を見るのが好き。彼女がベンチに座って、ただ黙って海を眺めるだけでもすごく救われるのではないかと思ったんです」
茜さんは「結局、残るのって紙の方なんですよね」という一言をもらす。「今は何でもデジタルで残せるように思うけれど、常に再現できる訳じゃない。手紙や写真は保存すれば長く生き続けるし、意外と生命力が強いものですよね」
鳩子自身も先代の「恋文」に出合い、厳しくも優しかった先代の新たな顔を発見する。「書き残したものに触れることでその人をより深く理解し、関係を深めることもできる。そうして変化し続けていく人間像を描いてみたかったんです」
親しい友人が暮らす鎌倉を訪れることは多く、時間の流れをじっくり味わうために1週間ほど滞在することもあるという。「身を置くだけで呼吸が深くなり、自分の体が自然に近づいていくのを感じられる場所。住んでいる人たちも魅力的で、自らが暮らす場所を愛している。とても豊かな町だなと思います」
おがわ・いと 作家。1973年、山形市生まれ。2008年、デビュー作「食堂かたつむり」が大ベストセラーとなり映画化。同書で11年イタリアのバンカレッラ賞、フランスのウジェニー・ブラジエ小説賞受賞。10年「つるかめ助産院」、16年「ツバキ文具店」(第14回本屋大賞4位)、19年「ライオンのおやつ」(第17回同賞2位)もドラマ化され人気を集める。エッセーや児童書、絵本、翻訳書なども手がけている。
記者の一言
「椿ノ恋文」の魅力の一つが、カヌレや太巻きなど、鎌倉に実在するおいしいものが登場すること。それらのお店は実際に小川さんが街を歩いたり、住民からの情報を得たりして見つけているのだという。「月に数日しかやっていないお店もある」ため、何度鎌倉を訪れても開店のタイミングに合わないお店がある、と笑う。「自分の暮らしを大切にしながら、生活の糧を得ていくというバランス感覚がいいですよね」。今後の展開の中でどんなレアなお店が登場するか、楽しみだ。
小川糸さんに聞く 「紙の生命力」信じ変化する人間を描く
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5月23日掲載、第43話イラスト(画・しゅんしゅん) [写真番号:1152034]