【1964東京五輪】〜アーカイブズで振り返る神奈川〜
村長日記(12) 村への出入り厳しく
連載 | 神奈川新聞 | 2020年9月29日(火) 09:00
1964年の東京五輪。神奈川には相模湖のカヌー選手村と大磯のヨット選手村が設けられた。神奈川新聞では両村長が日々の出来事をつづった「村長日記」が連載された。五輪イヤーの今年、当時の日付に合わせてこの連載を再び掲載します。海外旅行が一般的でなかった時代、世界各国の五輪選手を迎える緊張や戸惑い、喜びなど臨場感あふれる描写から、1964年と違うもの、変わらないものが見えてきます。
現代の観点では不適切な表現もありますが、1964年当時の表現、表記をそのまま掲載しています。(※)で適宜編注を入れました。

慰問の芸能に拍手
大磯選手村村長・馬飼野正治
受け付けから運営事務所へ、運営事務所からインフォメーションへ、この連絡がスムーズに流れるようになった。机上の計画と実際とはこうも違うものかとしみじみ反省させられながら開村以来二週間を経た。もうだいじょうぶだ。だれもが自信をもってことに当たれるきょうこのごろである。二十七日現在十八カ国百十二人、予定の約三分の一の入村である。
十一時ごろ中米のコスタリカ共和国の大統領夫人(ドニヤ・マリータ・デ・オルリッチ)の突然の訪問を受けた。もの静かな上品なご婦人であった。観光の道すがら立ち寄った。選手村の風光と宿舎がすばらしい、こういうところで生活する選手はしあわせである、私は内山知事(※内山岩太郎神奈川県知事)さんとは親しいあいだがらである、といっておられた。
きょうは選手のほとんどが江ノ島(※ヨット競技会場)へでかけた。しかし時間を問わずに続々と入村してくるので暇がない。今晩は選手役員のレクリエーションとして小田原の大同毛織(※現在のダイドーリミテッド。小田原工場は1996(平成8)年に閉鎖され、現在、跡地にはダイナシティが立つ)の芸能をあじわってもらうことにした。奥洞工場長以下百二人の大部隊が八時三十分開始一時間前にこられ練習をしていた。もうすでに二回の映画会を催したが観賞する選手たちはきわめて少なかったので徹底させるために夕食のテーブルの上に催しものの時間と内容を書いたものをおいた。この新手が功を奏したものか定刻には全員が集まった。
村長日記(12) 村への出入り厳しく
多くのスタッフが立ち働く大磯選手村の事務所=1964年9月、大磯町国府本郷 [写真番号:351828]
約4カ月の突貫工事で建設された相模湖選手村の男子宿舎=1964年9月、相模湖町(現在の相模原市緑区)与瀬 [写真番号:351827]
相模湖選手村の松原村長(左)、大磯選手村の馬飼野村長 [写真番号:350095]
神奈川新聞 1964年9月29日付6面 [写真番号:351826]