2015年8月に亡くなった画家でイラストレーター柳原良平さん(享年84)とともに、横浜を愛する人たちによる「ヨコハマの会」を立ち上げた男性がいる。グラフィックデザイナーで美術エッセイストの宮野力哉(りきや)さん(82)=茅ケ崎市。月例講座「ヨコハマ遊学校」の“用務員”として、30年余り運営に奔走してきた。休校が決まったが、ミナト横浜を愛する気持ちは衰えることはない。
「とにかく、横浜を愛して横浜を楽しくしよう。いい港町にしましょう」
1984年のある日。宮野さんと柳原さんはホテルニューグランド(横浜市中区)のバーで昼すぎから飲んでいた。文化人が全国から集うような会をつくろうと意気投合し、同年8月にヨコハマの会発足につながる。
外部から講師を呼んで得意分野を市民らに講演する「遊学校」を始めたのは85年5月。毎月第3木曜日の夜が定例だった。
講師選びは宮野さんの役割。「学校なんだから用務員だね」と自任し、裏方に徹した。講師の条件は「私たちの知的好奇心に応えてくれる人」。謝礼はないが、2次会に招待することが“報酬”だ。快く引き受けてくれる講師を探し出した。
遊学校を300回近く開催できたのは、宮野さんの多彩な経歴が生きている。
京都大丸百貨店の宣伝部でイベントプロデューサーとしてのキャリアを始め、59年に開業した横浜高島屋の宣伝部に在籍。文化イベントを数々企画し、多くの文化人と親交を深めてきた。
一方で、デザイナーとしての才能も開花させた。64年の東京五輪組織委員会デザイン室に最年少で参加。当時26歳だった。横浜地区の歓迎装飾を担当し、横浜駅西口には五輪色ののぼりがはためいた。
「東京五輪デザイン委員長の勝見勝さんから『全国で最もまとまりのある歓迎装飾が出来上がった』と評価されたのは本当にうれしかった」と明かす。
美術や広告関連の著作も多く、船のイラストでも活躍。さまざまな企業の広告物制作にも関わった。新聞・雑誌の連載を担当するなど多忙の中で講師を探し当て、案内状を受講生に送り続けてきた。
今月15日、同市中区海岸通のレストラン「スカンディヤ」で開かれた謝恩会。受講生でもあり、宮野さんの親友でもある浜田八重子さん(86)の姿もあった。「始まりがあれば、必ず終わりが来る。すてきな宮野さんが開いてくれた遊学校は楽しかった」。最高の褒め言葉だった。宮野さんは「みんな、このヨコハマが好きだと改めて分かった。素晴らしい」と笑顔で話した。
遊学校は休校になっても、受講生の付き合いは続く。「横浜マリンクラブ」に場所を移した2次会で、心地よく酔いに身を任せた宮野さんは「講師を毎月探してくるのが本当に大変でした」と明かした。そして晴れやかに言った。「やっと解放されました。今夜はとことん飲みましょう」