横浜港の玄関口を飾る架け橋「横浜ベイブリッジ」が来年、1989(平成元)年の開通から30周年を迎える。H型の2本の主塔とカーブを描くケーブルが印象的な斜張橋で、平成の時代を歩んできた優美な橋の建設には、渋滞解消への悲願と、ミナト横浜の将来への期待が込められていた。
計画されたのは65年。高度経済成長期の貿易拡大に伴い、横浜港は港湾物流が増大し、市中心部で激しい交通渋滞が起きていた。道路整備の遅れに見切りを付けた業者は、東京や神戸に拠点を移し始めた。
ベイブリッジはそうした窮状を打開するため、市が新しい都市づくりを目指した六大事業の一つとして整備されることになった。
手狭になった新港ふ頭の機能を補うために63年に完成していた中区の山下ふ頭は繁忙を極めた。横浜港の船内荷役業、東洋船舶作業の元社長、堀内利通さん(80)は「山下ふ頭は大型クレーン車や電化製品などを輸出する貨物船や、輸入する原材料などを積んだ貨物船がたくさんやってきて毎日が忙しかった」。
堀内さんは作業服のポケットにカメラを入れて、ミナトの移り変わりを撮影し続けてきた。80年に着工したベイブリッジも、主塔の基礎工事から完成までの建設工事の様子を山下ふ頭や本牧ふ頭などから写した。桁下の高さは海面から約55メートル。「当時は、これをくぐれない超大型のクルーズ客船が来るとは思いもしなかった」と話す。
全長860メートルの斜張橋は横浜博覧会開催と同じ89年に完成、上層の首都高速道路湾岸線が開通した。海運業界はコンテナ化が進んでおり、港湾機能の中枢は中区の本牧ふ頭や鶴見区の大黒ふ頭に整備されたコンテナターミナルに移っていた。
ベイブリッジは両ふ頭でコンテナを積み下ろしするトレーラーが頻繁に行き来し、国内屈指の貿易港・横浜港の物流を支えた。2004年に下層の国道357号線が開通すると「コンテナ街道」と異名が付けられた本町通りなどで物流関連の交通が大幅に効率化された。
一方、コンテナ化に対応していない山下ふ頭の貨物取扱量は年々減少。1980年には200万トンを超えていたが、2017年は15万トンと横浜港全体の0・1%となっていた。
港湾施設としての役割を終えつつある山下ふ頭では、新たなにぎわい拠点として再開発が始まろうとしている。ベイブリッジを利用すれば羽田空港まで約20分の好立地で、訪日観光客(インバウンド)を受け入れる最適地とされている。
山下ふ頭を拠点に長年働いてきた堀内さんは語る。「横浜港が今日まで発展できたのはベイブリッジがあってこそ。再開発が始まってもミナト横浜を代表する風景であり続けてほしい」