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横浜ベイブリッジ、命名は勘違いから 記者「特ダネ」採用 

横浜みなと新聞 | 神奈川新聞 | 2020年9月29日(火) 11:11

夜になるとライトアップされ、美しく輝く(港の見える丘公園から撮影)

 横浜港屈指の観光スポットとして親しまれている「横浜ベイブリッジ」。その名を最初に考案したのは、横浜市が建設計画を発表する1カ月前に特ダネで報じた地元紙の新聞記者だった。当初の計画は漢字だらけの名称だったが、記者のちょっとした勘違いからベイブリッジの文字が新聞紙面に躍り、世間に定着する結末となった。

横浜ベイブリッジの〝名付け親〟田代昌史さん=横浜市中区

 「実はねぇ」と、横浜港振興協会参与の田代昌史さん(84)は懐かしそうに切り出した。1964年11月、20代の田代さんは神奈川新聞社に所属する駆け出しの横浜市政記者だった。

 「構想を聞き出したときは興奮したね。米国サンフランシスコの金門橋を思い浮かべた。ミナト・ヨコハマが待ちに待った架橋だ、って」。ネタ元は“飲兵衛(のんべえ)”で周囲から煙たがられていた市の幹部だった。

 市や国の計画書には「横浜港・外防波堤上高架道路」とあったという。記事を書く上で、田代さんの頭をよぎったのは「長ったらしい役所用語ではなく、新聞の見出しに使いやすい名前」。金門橋の英語名はゴールデン・ゲート・ブリッジだが、田代さんは近くにある別の橋の名前がベイブリッジだったことから早とちりし、取り違えたまま執筆してしまった。

 「横浜港に『ベイブリッジ』」の見出しで神奈川新聞が報じたのは同年12月1日付。1面トップ記事だ。「修整さん」と社内で呼ばれる美術担当が描いた完成予想図も掲載した。田代さんは「この記事以降、市の書類にベイブリッジという名前が使われ始めた」と明かす。実際、当時の飛鳥田一雄市長が65年1月5日の記者会見で、横浜再生のための戦略事業「六大事業」の一つに「横浜港ベイブリッジ建設計画」を掲げ、正式名として認めた。

 横浜市が計画した事業は国、そして首都高速道路会社に引き継がれ、開通したのは新聞掲載から四半世紀後の89年秋だった。

「横浜港に『ベイブリッジ』」の見出しで、神奈川新聞の1面トップを飾った田代さんのスクープ記事(1964年12月1日付)

 「名付け親は横浜市!」と題したコラムが同社のウェブサイトにある。「一般公募で橋の名称を決定したレインボーブリッジや鶴見つばさ橋とは異なり、横浜ベイブリッジは昭和39(1964)年横浜市の計画時点からその名前が付けられていました」と記す。同社広報課は「もともとあった名前で定着していたので採用した。記者が名付けて市が追認していたことは初めて知った」と驚く。

 橋の名前には異論もあった。田代さんの友人で、横浜ゆかりのイラストレーターで画家の故・柳原良平さんは「ミナトはハーバー。正しくはハーバーブリッジと呼ぶべきではないか」とたびたび指摘していた。

 「柳原さんが正しい。でも新聞の見出しではハーバーブリッジは2文字増えて使いにくい」と釈明した田代さん。最後まで持論を曲げなかった柳原さんの言葉が、今も胸に残っているという。

 ◆横浜ベイブリッジ 横浜航路を横断し、本牧ふ頭と大黒ふ頭を結ぶ2層構造の斜張橋。89年9月27日に供用が始まった。橋長860メートル、塔の高さは海面から175メートル。上層は首都高速道路、下層は国道357号。

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