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2020年3月の記事から
【ウエブ版解説】いまだからこそ、「憲法」に立ち戻ろう

ジャーナリズム時評 | 神奈川新聞 | 2020年4月15日(水) 02:00

 新型コロナウイルスの蔓延(まんえん)で一層の厳しい立場に立たされているのは、言うまでもなく経済的な弱者層だ。すでに中・小規模事業者、個人事業主、フリーランス等の窮状は広く伝えられているところなのでここでは繰り返さないが、たとえば、路上生活者には「マスク2枚」さえ配布されないなど、まさに社会的差別のうえに政治的・経済的差別が重なる状況だ。

 さらには、教育現場で急速に導入が進みつつある「オンライン授業」も、それが受けられる層と、そうではなない家庭の格差がはっきりしている。その結果、さらなる教育格差が生じることになるだろう。こうした格差を生まないためには本来、全児童・生徒・学生へのモバイル端末の無償配布とセットで行う必要があるが、日本では将来の話で当面は「自己責任」だ。

 これは小中学校だけではなく大学にも該当して、筆者の勤務する大学をはじめ、ほとんどの大学ではコロナ収束までの間、オンライン授業によって通常講義を代替する方針でいる。しかし簡単に想像がつくように、オンライン授業を携帯電話(スマートフォン)で見聞きするのは相当に難儀なことだ。通常は画面に掲出する資料を、ポインターで指しながら、あるいは最低でも黒板などを映し出しながら話をする形態がベーシックな形として想定されるからだ(テレビでおなじみの某大学進学予備校を想像してほしい)。

 その時、小さな携帯画面で、どうして講義を理解できるのか、との課題である。いわば家庭環境が裕福な大学では、ほとんどの学生はノート型パソコンを保有している実態がある(これは、講師として出校している筆者の経験上も明らかである)。あるいは、学費が高い大学では入学時にパソコンを配布する大学も少なくない。

 しかし、そうではない中堅大学では一般に、学生のパソコン保有率はそれほど高くない。ということは、こうした学生は「置いてきぼり」を食う可能性が高いということだ。パソコンくらい買えばよい、という議論もあるだろう。しかし、このアルバイトもできない時期に、安いとはいえ10万前後の出費は不可能である。

 憲法とは違う話になってしまったが、いまの社会の「前のめり」が、弱者を置き去りにしているのではないか。このように、社会が混乱したりして危機感が醸成されると、社会的弱者を意図的に攻撃対象にしたり、そうではなくても忘れ去る、あるいは無視することで結果的に社会的差別を生むことに繋がりやすい。

 そして、ジャーナリズムにおける「憲法」の話とは、まさにこうした状況が起きそうなときに、あるいは起き始めに、きちんとその問題を指摘し、改善への処方箋を見つけ出される手助けができるかどうかということだろう。必ずしも、机上の憲法論議だけを紙面で期待しているわけではないということだ(そうした、がっちりした議論ができるのもまさに、新聞媒体の優れた特徴の一つではある)。

 とりわけ地方紙は、地元の住民との距離が近いのが特徴だ。ということはそれだけ、一番初めに影響が出る人々、一番困る人々とともに、紙面を作っているということに他ならない。その時、そんな変化や苦しみを敏感に感じることが、憲法に敏感な新聞に繋(つな)がるということだ。

 こうした目で見てみると、毎日の紙面は「憲法」が溢(あふ)れている。やまゆり園も原発・放射能汚染の問題も、当事者やコミュニティーの住民にとっての生存権や平等権の話そのものだ。つい先日紙面で紹介された踏切の話も、最近「時代の正体」で連載が組まれた沖縄の話では、争点の1つは地方自治だ。教科書検定制度の記事も先月、大きく扱われたが、これは学習権だ。

 このように目の前の問題とともに、少し先の話も大切だ。憲法の話としては関連して、改憲時の国民投票期間中の報道も含めた、表現の自由のあり方がある。最近はあまり紙面化されないが、いざ手続きが始まる段階では大きな問題になることは間違いない。しかし、実際に手続き始まってから議論していては間に合わない。早めに議題設定して、議論を喚起するのも新聞の重要な役割だ。

 もうだいぶ前になるが、「希望は戦争」という論稿が話題になったことがあった(『論座』2007年1月号)。10年以上前の衝撃的なタイトルの文章だが、「1億層貧困化」は一時的、表層的なアベノミクスで、表面上見えづらくなっていたが、今回のコロナ禍で一気に噴き出している(このアベノミクスの「嘘(うそ)」について、神奈川新聞はデータをもってきちんと追及している数少ないメディアだ)。

 たとえば、30年前の天皇死去の時も「自粛」の嵐が吹き荒れたが、この時、経済の死はそれほど深刻に議論されなかった。まだ社会に余裕があったからだ。この時に比べ、非正規雇用比率は劇的にあがり、子どもの貧困が一般化している。自粛による経済の落ち込みが、そのまま生活破綻、生命の危機に直結している。

 憲法に関わる課題は、社会の少数者、弱い立場の人にとっての問題であることが少なくない。強者の時代だからこそ、ジャーナリズムの役割は重い。

 憲法は究極の正義を定めたものであるが、そうはいっても「正しさ」だけを思い求めることで、お互いの正義が衝突して新たな争いを生む場合すらある。そこで重要なのは、その先にある「楽しさ」だろう。現在、新型コロナウイルス感染蔓延のなかで、多くの人が強いストレスを感じ、不安な日々を過ごしている。その時にもちろん、責任あるメディアとして何が「正しい」のかを伝えることは絶対に必要だ。

 しかし、たとえば検査の是非一つとってみても、意見の相違はわかっても、それを毎日見聞きする読者・視聴者は、「何とかしろよ」のストレスが溜まる一方だ。だからこそ、その先にある楽しさを日々のニュースでどう伝えるかが求められることになる。たとえばネット上で話題になった「みらい食事券」では、いま窮状にあるレストランの食事券に投資することで、将来の食事代を支払うシステムで、レストランを援助するとともに楽しい食事を想像させるものだ。

 これなども、紙面を通じて楽しみを具体的に読者が描けることで、物心ともに豊かにしてくれるものだろう。こうした楽しさや豊かさを「憲法の理念の先にあるもの」として意識して、新聞が取材・報道してくれることも是非期待したい。憲法25条はこういう。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」

 今日現在、「健康」かつ「文化的」が守られている人がどのくらいいるだろう。たとえば、図書館も閉まり、本屋も開いていないなか、どうして本を読めばいいのか。本くらい1か月読まなくても人は死なない、のは確かだ。でも、人としての文化的最低限度の生活とは具体的にどういうものだと国は考えているのか、楽しみを何に求めるのか――その解を新聞が与えてくれることを願う。

 戦争という言葉は嫌いだが、戦いに勝つというフレーズをどうしても使うならば、「民主的な戦争」で難局を乗り越えていきたい。

※詳しくは、本紙版「ジャーナリズム時評」をお読みください。

(1年間、お付き合いいただきまして、ありがとうございました。ジャーナリズムを鍛えるのは読者だ、と思う。今後は一読者としてウオッチを続けていきたい)

山田健太(やまだ・けんた)専修大学ジャーナリズム学科教授。専門は言論法、ジャーナリズム研究。日本ペンクラブ専務理事。主著に「沖縄報道」「法とジャーナリズム第3版」「現代ジャーナリズム事典」(監修)「放送法と権力」「ジャーナリズムの行方」。

 
 

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